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シール

 壁に掛けられた大きな時計の針はまもなく一七時を指そうとしている。バックヤードにいた青谷凪亮子は文具棚から値引きシールのロールを取り出し、ハンドラベラーにセットした。エプロンの前ポケットにラベラーをしっかりと差し込む。亮子のすぐ隣では課長の井間賀俊哉も同じようにラベラーの準備をしていた。俊哉のラベラーには半額シールがセットされている。目が合うと俊哉が力強く頷いた。

「よし、行こう」
 通用口のスリットカーテンを掻き分けるようにして、二人はゆっくりと店内に入った。一歩入ったところで立ち止まったせいで、スリットカーテンの端が肩に掛かったままになる。
 前に立つ俊哉がすばやく店内を見回した。
「大丈夫そうだ」
 そう言ってすっと動き始める。
「はい」
 亮子も俊哉のあとに続いて店内に足を進めた。
 客は普段の三割増しといったところだろうか。特に人の声が聞こえるわけではないのだが、それでもざわざわとした薄い騒音が店内を満たし、有線放送のBGMや売り場の音声と混ざって軽い圧迫感をもたらしていた。
 もっともこの圧迫感と食材の香りが販売を促進するとわかっているので、BGMの音量は下げない方針になっている。
 住宅地にあるスーパーマーケットは日曜日に混雑することが多いが、ここ都心の店舗は金曜の夕方に一番客足が伸びる。特に連休前の今日は混むことがわかっている上に、本部がネットでクーポン付きのチラシを発行したので、さらに混雑することが予想されていた。
 レジのサポートには厚めのシフトを敷いている。その代わりに、商品整理は四人から二人に減って、亮子と俊哉だけで対応しなければならない。
 野菜から肉、魚、乳製品、調味料、菓子、飲料、冷凍食品と各売り場を順番に回りながら、商品に傷みがないかを確認し、奥へ引っ込んだ商品を手前に並べ直し、違う棚へ戻された商品を元の位置へ戻す。
 プツ。
 不意に天井のスピーカーから有線放送のBGMが切られる微かなノイズが聞こえた。
 続いてマーラー交響曲第五番第四楽章のゆったりとした美しい調べが流れ始める。十七時になったのだ。
「五時になりました。シフトを確認してください」
 マーラーを遮るように、がさついた声の店内放送が響き渡った。
「人数が足りないから手分けしよう」
 エプロンからハンドラベラーを取り出しながら、俊哉はもう片方の手で魚売り場を指した。
「青谷凪さんはあっちの魚から肉売り場へ回ってくれ。俺は野菜、乳製品、パンの順番で移動するから」
「わかりました」
 魚売り場はまだいいが、肉売り場もか。亮子はゴクリと唾を飲み込んだ。どうやらその音が俊哉にも聞こえたのだろう。
「大丈夫だよ」
 軽く笑顔を見せつつ俊哉は袖をまくり、腕時計に視線を落とした。
「十七時二十分に集合だ。場所は」
「お惣菜売り場ですね」
「そうだ。そのあとは二人で行かないと危険だからな」

 すぐに亮子はエプロンから取り出したハンドラベラーの動作を確認し、意を決して魚売り場へ向かった。
 商品ラベルを見ながら、すばやく値下げ額を決めてシールを貼っていく。シールを貼るたびに周囲から伸びた客の手が商品を籠に入れていくから、まるでゲームでもやっているような感覚になる。
 鰆の味噌漬けにシールを貼りかけて亮子は手を止めた。
「ううん、大丈夫。これはまだ値下げしなくても売れるはず」
 同じ魚、同じ消費期限でも解凍表示されているもの、生食用のもの、調理用のもの、加熱処理されたもの、塩蔵してあるものでは、それぞれ値下げ幅が変わるし、チラシに掲載されている食材は夕方から夜にかけても売れる可能性が高いので、シールを貼るのは後回しにするほうがいい。
 一般的にそこまで考えて値下げシールを貼っている店舗は少ない。基本的には決められた期限になれば同じタイミングで一斉に同額の値下げをするだけだ。
 だが、主任に昇格してこの仕事を担当するようになってから、値下げする金額とタイミングによって、そのあとの売れ行きが大きく変わることに、亮子はおもしろさを見い出していた。
「ふう」
 魚売り場の商品に、ひと通りシールを貼り終わったところで大きく深呼吸すると、亮子は続いて肉売り場へ向かった。長い冷蔵ショーケースには牛肉、豚肉、鶏肉の順に手前から向こうへ陳列されている。
 亮子は数秒間ショーケースの前に立ち、端から端まで視線を送った。チラシの情報と今日の天気、これまで売れ行きから判断して、どの順番にいくらの値下げシールを貼るかを頭の中でシミュレートするのだ。
 ショーケースの周囲では、肉の値下げを待つ客たちが数人、早くシールを貼らないかと期待しながら待っている。
 亮子は最初の値下げ幅を決めて、牛肉コーナーに立った。周りの客が息を潜めてゆっくりと近づいてくる。
 ぬうっ。不意に背後で嫌な気配がした。あわてて一歩足を横にずらして商品前のスペースを空けると、一人の男性がすっと亮子の脇を通って肉の棚へ近づいた。キョロキョロと首を左右に動かして商品を確認したあと、再び棚から離れて亮子の後ろに立つ。男の視線は亮子の手にじっと注がれていた。
 やっぱり来た。亮子は自分の膝がガクガクと震えるのを感じた。妙に浅黒く日焼けした男。ずんぐりむっくりの体型なのだが、手足だけは妙に細い。
 彼は「肉の丸古」と呼ばれていた。「お惣菜の木寺」「牛乳の比嘉」と並ぶ三大安売り狙い客の一人である。どの商品がいつ値下げされるのか、値下げ幅はいくらなのかを見極め、絶妙のタイミングで商品を手に入れていく強者たちである。
 国産和牛細切れのお徳用パック。亮子は百五十円引きのシールを貼ろうとして手を止めた。
 背筋に冷たいものが流れる。丸古が虎視眈々と細切れを狙っている気配を、亮子は無意識のうちに感じとっていた。あたりに漂うどす黒いオーラの中から今にも丸古の手がぬっと伸びてきそうだった。
「よし」
 亮子はすばやく五十円引きのシールに切り替え、躊躇うことなくパックの上に貼った。シールを貼った瞬間にものすごい勢いで伸びてきた丸古の手が、しかし、パックを掴む前にピタリと止まった。そのままするすると下がっていく。代わりに別の客の手が細切れのパックを掴み、籠の中へ入れた。
 くうう。気づかれたか。なんとか丸古に五十円引きを掴ませたかったのに。どうやら百五十円引きのシールを貼るまでは手を出さないつもりのようだ。
「ダメ、気にしちゃダメ」
 亮子は腹に力を入れた。そう。今日はたった二人で業務を回さなければならないのだ。「肉の丸古」に翻弄されているわけにはいかない。ここを早く終わらせて井間賀課長の待つお惣菜売り場へ行かなければならないのだ。
 牛肉コーナーにはそれなりに客がいる。今日の料理番組は青椒肉絲だったから細切れ肉はしばらくこのままでもいいだろう。ステーキ肉とホルモンに値下げシールを貼ると、値下げ待ちの客がスイカに群がるカブトムシのように集まってくる。
 亮子は豚肉、鶏肉にも値下げシールを貼り、早足でその場を立ち去った。お惣菜売り場は冷凍食品用の冷蔵庫の向こう側にある。
 狭い通路を次々に行き交うショッピングカートを縫って、なんとかお惣菜売り場へ辿り着いた亮子は色を失った。冷凍食品売り場とお惣菜売り場の間で、俊哉が蹲《うずくま》っている。
「井間賀課長!」
 あわてて駆け寄った。俊哉は額から血を流し、片膝を床につけた状態でじっと体を強張らせている。
「どうされたんですか」
「ひ、比嘉に、やられた」
 息が上がっていた。肩で息をしている。
「比嘉って〝牛乳の比嘉〟ですか?」
「俺が半額シールを貼った瞬間に、グフッ」
 俊哉は激しく咳き込んだ。
「大丈夫ですか」
「ああ」
 ようやく咳が治まった俊哉はゆっくりと立ち上がった。ふらりと体が揺れるが、壁に手をついて、なんとか倒れずに持ちこたえる。
「まだ新しい牛乳にも無理やり半額シールを貼らされてしまった」
「まさか、そんな」
 亮子の顔が曇る。
「すまない。抵抗できなかったんだ」
 俊哉は目を瞑ってゆっくりと首を左右に振った。
「恐ろしいヤツだ」
「ケガをされています」
 亮子は俊哉の額にそっと手を伸ばした。乾き始めた血の痕を指先でゆっくりとなぞる。
「大丈夫、かすり傷だよ」
 俊哉は苦笑いをした。ただ半額シールを貼るだけなのに、なぜ額をケガしたのかはまるでわからないが、どうやら大事には至らないようだ。
「ああ、よかった」
 亮子は胸をなで下ろした。
 あれ? 亮子の胸の奥が急にざわついた。どうして私、ホッとしているんだろう。上司にケガがなかっただけで、こんなにホッとするなんて。
「このあとはお惣菜だ」
 俊哉はしっかり立つと、エプロンの紐を締め直した。
「はい」
「よし、行こう」
 きっぱりとした声を出した俊哉は、亮子の肩を軽く叩いた。

 お惣菜売り場での値下げシール貼りは、予想よりも捗った。他の客に紛れるようにして、予想通り「お惣菜の木寺」が待ち構えていたが、タケノコの煮物とナムルセットをあえて大幅に値下げしてみせると、木寺はまんまと引っかかり、その隙にチキン南蛮の半額を他の客にとられる羽目になった。怒り狂った木寺は、枝豆が半額になるのを待ったが、俊哉も亮子も枝豆はそのままにして、エビシュウマイを半額にした。慌てた木寺がエビシュウマイに近づくが、すでに他の客の手が伸びいていた。
「卑怯者め」木寺は大声で怒鳴り散らした。
「お客様、ほかのお客様のご迷惑になりますので、お静かに願います」
 そう言いながら、亮子は底知れぬ快感を抱いていた。あの「お惣菜の木寺」に一杯食わせることができたのだ。思わず笑みがこぼれそうになるのを、ぐっと堪える。今日はまだこれでは終われない。
「青谷凪さん、準備はいいですか」
 俊哉が緊張した顔つきになった。
「はい」
 二人はお惣菜売り場の最後、寿司コーナーへ向かった。安売りを狙う客たちが二人についてゾロゾロを寿司コーナーへ集まってくる。ここから先は、シール貼りと客の手との戦いになる。
 シールの対象は、特上にぎりセット、イカづくし、貝にぎり四点盛りだ。いったいいくらの値引きをするか。半額にするか、それ以上にするか。ここからは、周囲に群がっている客と二人との駆け引きになる。
 俊哉が半額シールを手にした。
 ざわっ。
 周囲から、えも言われぬ気配が立ち上る。シールが貼られた瞬間に手を伸ばせるように、客たちも固唾を飲んでいる。
 ピタ。イカづくしに貼るかと見せかけて、俊哉はすばやく向きを変え、シールをシメ鯖のパックに貼った。途端に伸びてきた手がシメ鯖のパックを掴み取り、籠に入れる。
「あああ、シメ鯖だったあ」
 釣られて籠に入れた客がその場にうずくまる。
 亮子はチラリと背後を見た。丸古も比嘉も木寺もニヤニヤしたまま、俊哉の手を見つめている。さすがに三大客はこんなブラフには引っかからないようだ。
「次は私が」
 亮子は手早く二百円引きのシールを用意して、貝にぎり四点盛りに貼った。その瞬間。
 ビュン。
 激しい風が吹いた。振り返ると比嘉と木寺が、貝にぎり四点盛りを籠に入れようとしているところだった。すばやい動きだった。おそらく他の客たちは、いったいいくら値下げされたのかさえわからなかったに違いない。
「これ以上はヤツらに渡すな、他のお客様にお届けするんだ」
 耳元で俊哉が囁く。
「でも、どうすれば」
「俺がやってみる」
 俊哉は半額シールを指先につけて、イカづくしのパックに近づいた。客の輪が俊哉を中心にしてぎゅっと小さくなる。三大客も輪の中に割り込んできた。この様子だとシールを貼った瞬間に凄まじい争奪戦が行われるに違いない。
 なんとか一般のお客様に安売り商品をお届けしたい。
 俊哉は体を捻って、一人の老婦人によく見えるようにしながら、イカづくしに半額シールを貼った。
「あら、安いわね」
 老婦人は顔中に笑みを浮かべて、イカづくしにゆっくりと手を伸ばす。
 が、その手を払いのけるようにして、外側から大きな手が伸びてきた。イカづくしのパックを掴み取り、そのまま戻ろうとしたところで、さらに別の手が現れ、その腕を激しく叩いた。浅黒い手が、ポロリと落ちたイカづくしのパックを掴んで輪の中から消えていく。
 籠にイカづくしを投げ入れた丸古が高笑いをした。普段は「肉の丸古」と呼ばれているが、肉だけでなく寿司の安売りにも手を出すのだ。
「ダメだ」
 俊哉はがっくりと首を下げた。
「どうしても、お買い得品はあいつらにとられてしまう」
「課長、私に考えがあります」
 亮子は、自分に顔を向けた俊哉の目を、まっすぐに見つめた。
「私に半額シールを下さい」
 いつになく真剣な口調だ。
「わかったよ」
 俊哉はラベラーからシールを四枚引き剥がして、亮子へ渡した。
 左右の指先に半額シールを貼った亮子は特上にぎりセットの前に立った。ゆっくりと手を伸ばしてシールの端をパックの外側に触れさせる。このまま指から力を抜けば半額シールは特上にぎりセットに貼られ、その瞬間からこの商品は半額になるのだ。 
 こうしてシールの端ををパックに触れさせた状態で、すでに気配を察した客たちの手は、いつでも伸びてくる準備が整っている。
 あとはタイミングしだいだ。
 亮子はそっと周囲を見回した。
 肉の丸古、お惣菜の木寺、そして牛乳の比嘉。三大客も手を伸ばす気まんまんで、亮子の近くに陣取っている。彼らはそれぞれのテリトリーで安売りを狙うだけでなく、みんなが大好きなお寿司にまで手を出そうとしている。許すわけにはいかない。
「ふううう」
 亮子は大きく深呼吸をしたあと、特上にぎりセットに触れさせたシールを一気に貼った。寿司の陳列台では、わずか一瞬の間に激しい攻防が始まる。。周囲から何本もの手が凄まじい勢いで延びて寿司を掴もうとする。パックを掴んだ手を別の手が強く叩き、落下したパックをすくい上げたところで、さらに別の手がそのパックを奪い取る。

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