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ピンポイント

 散歩の帰りにいつもと違う道を通ったのはまったくの気まぐれからだった。
「おお。こんな近所に鍼があったのか」
 丸古三千男は路地から遠慮がちに顔を出している小さな立て看板を覗き込んだ。ちょうど短篇の原稿を書き終えたばかりで、首も肩も腰もカチカチに凝っている。
「せっかくだから打ってもらうか」
 店舗はどうやらこの路地の中にあるらしい。目的の建物を見つけ、エレベーターのない雑居ビルを四階まで上がると、さすがに息も切れ、ふくらはぎが妙に重くなった。だんだん痛みさえ出てくる。
「まあいい。鍼を打てば、筋肉も緩むだろう」 
 丸古は独り言ちながら、ベージュに塗られた鉄製ドアの前に立った。「鍼」と遠慮がちに書かれた小さな看板が掲げられている。
「ここだな」 
 呼び鈴を押すとカタンと高い音を立てながらドアが開いた。
「どなた?」
 ゆったりとした作務衣を纏った男性が顔を覗かせた。長く伸びた髪と髭が世を捨てた仙人を思わせる。
「下の看板を見てきたんだがね、予約は必要なのかな?」
「いや、大丈夫ですよ。どうぞ」
 仙人はドアを大きく開き、片手で丸古を招くような仕草を見せた。
「それはありがたい」
 玄関で靴を脱ぎ、スリッパに履き替えて部屋の奥へと進む。殺風景な部屋だった。ほとんど家具らしきなく、ただ八畳ほどの広さの部屋に布団が敷かれている。
「鍼は初めてですか?」
 仙人が聞いた。
「いや、ときどき打ってもらっている」
 そうやって鍼に対する恐怖心はないと伝える。
「わかりました。で、今日は?」
「首と肩と腰がね、かなり硬くなっている気がするんだ」
「ではまず座ってください」
 座ると言っても椅子はない。丸古は仙人に指示されるまま、畳の上であぐらをかいた。
 仙人は丸古の片腕をとって、手首に指先でそっと触れた。じっと目を瞑って何かを感じ取っているように見えるが、脈ではないことだけは確かだった。
「口を開けて舌を見せてください」
「あー」
 丸古が大きく口を開けると、仙人は丸古の舌を覗きながら、手首を掴む手を強くしたり弱くしたりする。
「なるほど、わかりました。それでは上半身裸になって、その布団にうつ伏せになってください」
 何がわかったのか、仙人は大きく頷いて布団を指差した。特に逆らう理由もないので丸古はシャツを脱ぎ、布団に伏せる。
「うちは和鍼なんですが、ご経験はありますか?」
「いや、初めてですな」
 顔を枕に埋めたまま丸古は首を左右に振った。
「基本的には西洋鍼と変わりませんが、打つ場所がちょっと違うので戸惑われる方もいらっしゃいますので」
「私は大丈夫ですよ。お願いします」
 仙人は丸古の体の何カ所かに触れてから大きく息を吸った。
 ひょろろろろううう。
 独特の呼吸音が聞こえてくる。
 これはたぶん気ってやつだな。気功だとか、そっち系の技なのだろう。丸古は伏せたまま仙人の呼吸音に耳をそばだてた。なかなかいい雰囲気だ。このぶんなら、いつもの鍼とは違う効果がありそうだ。
 仙人の指が丸古の肩に触れる。
 すうっ。何やら冷たいものがいきなり肩に入っていく気がした。
「えーっと、これは」
 丸古は戸惑った。いつもの鍼であれば、凝っている場所の神経節に針先が触れると電気の流れるような感触があって一気に筋肉が緩むのだが、今日は。
「なんだかぜんぜん緩まないぞ」
 鍼が体に刺さっていることはわかるのに、なんというか、微妙にツボを外しているのだ。ただむず痒いばかりで気持ちよくもなんともない。
 次々に鍼が打たれていくが、どれもこれもツボを外している。ああああ、じれったい。もっと、もっとピンポイントで打ってくれ。確実にツボに刺してくれ。丸古はうつ伏せになったまま悶絶する。
 ひょろろろろううう。
 それでも仙人は大袈裟に呼吸をしては、的外れな場所へ鍼を打っていく。
 なぜだ。なぜツボに打ってくれないのだ。体が緩むどころかイライラするせいで、かえって体に疲れが溜まっていく。カチカチだった首も肩も腰も、よりいっそう痛みが増したような気がするじゃないか。
「終わりました」
 仙人は厳かに告げた。
「体を起こしてください」
 丸古は難しい顔をしたまま、布団の上であぐらをかく。
「どうですか?」
 仙人はゆっくりと首を傾けながら聞いた。
「あのですな、先生」
 結局、一鍼もピンポイントに刺さらなかったのだ。丸古はここで言葉を濁すような男ではない。
「まったくツボに打たれなかった気がするんだがね」
 そう言って仙人を睨み付けた。何が和鍼だ。何がひょろろろろうううだ。格好ばかりで何の技術もないエセ鍼灸師め。雰囲気だけのインチキ野郎め。

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