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レンズを透せば

illustrated by スミタ2023 @good_god_gold

 玄関から一歩外へ出たところで夏の強い日差しが彩の目を直撃した。あまりの眩しさに思わずキュッと目を細めたが、すぐに電子コンタクトレンズが反応して適切な光量に調整してくれた。この機能があるので夏もサングラスをかける必要がない。
 とっておきのバッグを肩にかけ直し、彩は颯爽と通りを歩き始めた。久しぶりの休日をどう過ごそうかと昨夜はあれこれ考えていたのだが、とりあえず買い物に出かけることに決めたのだ。
 歩きながら彩はくるりと回転して通り全体を眺めた。この辺りは住宅も商業ビルも白い壁にすることがルールになっている。真っ白からベージュまで、多少の差はあるものの白を基調とした街は清潔な雰囲気で、彩はそれが好きだった。街が白いぶん、キッチンカーやコーヒースタンドのポップな色使いが鮮やかなアクセントになっている。
 最新のファッションに身を包んだ若者たちが、真っ白な街の中を歩いている様子はまるで映画のワンシーンのようだ。自分もその一人になっているような気がして彩はついニヤついてしまう。真っ青な空には小さな雲が二つ浮かび、その間には飛行機雲が数本、うっすらと漂っている。
 彩は視界の端に欲しい物リストを表示させた。パソコンのデータは常に電子コンタクトレンズとつながっている。リストからお目当ての靴を選択し価格と販売店を追加表示させた。ターミナル駅のブティックで扱っていることを確認して、こんどは駅までの道のりを映し出した。
 目の前に地図とルートがいくつか浮かび上がる。彩はその中からコミュニティビークルを利用することにした。キラキラと銀色に輝く流線型のコミュニティービークルは見ているだけでも楽しいが、乗るともっとワクワクした。表示された時刻表に拠れば次のビークルは十五分後にやってくる。
 彩は通りの向こう側にあるビークル乗り場に目をやった。自動的に距離と移動時間が表示される。
――四百三十七メートル。徒歩でおよそ七分五秒―― 
 ビークル乗り場には数人の乗客が並んでいた。乗り場を拡大すると、人々の顔の下にそれぞれの名前が白とグレーの文字で表示される。白い文字は面識のある人だ。電子コンタクトレンズが普及してからは相手の名前が思い出せずにどぎまぎすることもなくなった。
 光量だけでなく遠近を見るときでそれぞれに合わせてピントも自動調整してくれるから、メガネを数本持ち歩く必要もない。
 乗り場へ向かう途中のコーヒースタンドで彩は足を止めた。カラフルでかわいらしいスタンドの中では若いカップルが忙しそうに次々にコーヒーを淹れては客に渡している。
「カフェオレを一つ」
「はい」
 目の中に浮かび上がったメニューからカフェオレを選択し、支払いボタンに視線を向けた。支払われた金額と口座の残高が数秒間だけ表示される。
 昔はこうしたやりとりの一つ一つを、いちいち手でやっていたのだ。年配者の中にはスマートフォンのほうが良かったと言う者もいるが、どうしてあんな不便なものを使いたがるのか彩にはまるでわからなかった。電子コンタクトレンズならそのときに必要な情報が瞬時に表示されるのだ。わざわざ検索する必要もない。
 日常生活から仕事や行政手続きまで、今や何もかもがこのレンズを使って行えるようになっている。視覚障害者も専用のレンズを脳神経に直結するので、誰もが同じように情報を扱えるのだ。
 目を閉じればレンズの映像は消えるが、設定しだいではそのまま映しっぱなしにすることもできるから、彩もときどき本を読みながら眠ることがあった。
 左目の視野にメッセージがポップアップした。
「今日、映画見ない?」
 同僚の菱代だった。もちろん映画もそれぞれの目に映るので劇場にスクリーンはない。わざわざ映画館に行くのは立体音響を体験するためである。
「いいよ。あとで連絡する」
 彩はメッセージを返してからカフェオレを受け取った。白い紙コップにはおしゃれな犬のイラストが描かれている。
 地図上に小さな点が灯った。もうすぐビークルがやって来るのだ。彩は乗り場に向かって少し早足で歩き出した。
「あっ」
 いきなり強い風が吹き、足がふらついた。カフェオレのカップを落としそうになって、あわてて両手でしっかりとにぎり直す。
 もう一度風が吹いた。
「痛ッ」
 どこから飛んできたのか砂粒が彩の目に入った。ギュッと目を瞑って手の甲で目尻を擦るが痛みはなかなか治まらなかった。涙が数滴流れる。しばらく目蓋を押さえたあと、そっと目を開けた。
「あれ?」
 何も見えない。ただ真っ暗な世界が広がっている。必要な情報が表示されるどころか目の前の景色さえ見ることができなかった。
 彩は手探りでカフェオレのカップを地面に置き、指先を目に近づけると電子コンタクトレンズをそっと外した。外でレンズを外すのは初めてのことで、失くさないように確認しながらゆっくりと掌に乗せる。何度か瞬きをして、再びそっと目を開く。

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