白い息
従業員用に与えられているスペースに車を駐めた比嘉隆は、牛革であつらえた厚手の手袋を嵌めたあと、助手席に投げ置いてあった毛糸のマフラーをしっかりと首に巻きつけた。
エンジンを切るとすぐに車内の気温が下がり始める。ワイパーが止まってからまだ一分も経っていないのに、もうフロントガラスにはしっかりと雪が積もって向こう側がほとんど見えなくなっていた。それでもすぐそこに工場の建屋が聳え立っているのはわかる。雪越しにぼんやり映る黒い影は、はるか昔に人々が放置して去った廃墟のように思えた。
「よし」
ここから工場までは三百メートルほどだ。比嘉は自分に気合いを入れるかのように大きな声を出してドアを開けた。とたんに強烈な吹雪が流れ込み、室内に白い渦が巻く。
外に出ると僅かに開いていたジャンパーの胸元から入って来た冷たく重い風が一瞬にして比嘉の体から体温を奪った。体が反応してブルッと震える。
今にも滑りそうになる足をコントロールしながら正門を抜けると、工場の敷地全体が高い塀に囲まれているせいか、体を切るような風がいくらか弱まった。
「ふう」
大きく白い息を吐いてからジャンパーのファスナーを閉め直し、比嘉は建屋の入り口へ急ぎ足で向かった。
「おっと」
風向きが変わって向かい風になる。それにしても強い風だった。体をぐいぐい押し戻そうとする風に逆らいながらどうにか足を進めていると、しだいに体が熱を帯びてくる。そうして大きなガラス戸の填め込まれた入り口へ辿り着いたときには、額にじっとりと汗を掻いていた。
「はあ、はあ」
入り口の軒下まで来ると建物が風を遮ってくれるおかげで、ようやくひと息つけた。体温が上がったからなのか、さっきよりも息の白さが濃くなっているような気がした。
「おはようございます」
「ああどうも比嘉さん」
建物に入ってすぐのところにある小部屋の窓ガラス越しに挨拶をすると、それまでテレビで朝のワイドショーを見ていた顔馴染みの守衛が、座ったまま顔だけをこちらに向けて手を振ってよこした。でっぷりとした守衛はすぐにテレビ画面へ向き直ったが、手はそのまま振り続けていた。
白と青でカラーリングされた殺風景な通路を歩きながら比嘉は手袋を脱ぎ、マフラーを外して手に持った。ジャンパーのファスナーを端まで引き下ろして前をはだけた。荒かった息はずいぶん落ち着いてきたが、建物の中に入ってもまだ息は白いままだった。
廊下を突き当たってロッカールームに入ると何人かの同僚が作業服に着替えているところだった。
「今日はかなり寒いな」
「予報によると十度になるらしい」
もちろんマイナス十度のことだが、この辺りではいちいちマイナスをつけずに言うのだ。
比嘉は自分のロッカーを開け作業服を取り出した。この工場オリジナルの作業服で、手触りはゴワゴワとしているが、布自体は柔らかく適度な余裕もあって動きやすいものだった。誰もが下着の上に直接この灰色のつなぎを着ている。工場内は暖房が充分行き届いているからそれで充分だった。
「外、めちゃくちゃ吹雪いていたよ」
「そうかあ。寒いのは辛いよなあ。あーあ、早く春にならないかなあ」
「何言ってんだよ。まだ冬が始まったばかりじゃん」
数人と雑談をしながら比嘉はテキパキと着替え、ロッカーの扉を閉じたところで壁の時計に目をやった。七時四十七分。比嘉たち第四シフトの始業時間は八時だ。
「ようし、まにあったぞ」
比嘉がホッとして息を吐くと、白い息が辺りにふわりと広がった。
「ん?」
室内の気温はどこも二十四度に設定されている。それなのに、どうしてまだ息が白いのだろうか。比嘉は首を捻った。捻ってもう一度大きく息を吐いた。
「はあーっ」
やはり息は白かった。
「何やってんだよ?」
尋ねてきたのは同じ班の飯尾だ。
「それがさ。俺の息が白いんだ」
もう一度息を吐いてみせる。
「本当だ。こんなに暖かいのになんで白くなるんだ?」
「変だろ」
「どうした?」
作業服に着替え終わった同僚たちがバラバラと集まってきた。
「いいから、比嘉の息を見てみろよ」
みんな不思議そうな顔をして比嘉の吐く白い息を見ている。何人かが自分でも試すように大きく息を吐いたが、比嘉とは違って、その息が白くなることはなかった。
「理屈から言えば、比嘉の息がめちゃくちゃ熱いってことになるな」
そう言ったのは溶接班の砂原だった。
「どういうこと?」
「もともと人間の息はそれほど熱くないから気温が十二、三度くらいまで下がらなきゃ息は白くならないんだ。あ、この十二度はプラスの十二度だよ」
だが、沸騰した薬罐から立ち上る湯気は暖かい部屋の中でもはっきり白く見える。部屋の気温が低くなくとも、水蒸気の温度が高ければ室温で急激に冷やされた水滴が白く見えるようになるのだ。
「なるほど。じゃあやっぱり比嘉の息が熱いってことだな」
「はあーっ」
比嘉はいきなり飯尾の首筋に息を吐きかけた。
「うわっ、やめろ! 何するんだよ。火傷したらどうするんだ!」
体を仰け反らせながら顔を真っ赤にして叫んだ飯尾はすぐ真顔に戻った。
「いや、別に熱くないな」
「だよな。俺も自分で熱いと思わないもん」
「じゃあ、なんで白いんだよ?」
みんなが一斉に砂原に顔を向けた。
「いや、そんなの僕にもわかんないよ」
砂原が慌てて首を振る。
比嘉はもう一度、自分の手に息を吐きかけたが、やっぱりそれほど熱いとは思えなかった。それなのにどうして白くなるのか。自分だけがみんなと違っている奇妙な恥ずかしさが湧き起こってくる。
ディンドンタントン。
始業五分前のチャイムが鳴って、話はそこで終わった。
ラインに入って作業をしている間も比嘉の息はずっと白いままだったが、周りの工員たちはまるで気づいていないようだった。他人の息が白いかどうかなんて、わざわざ意識して見なければ気づかないものなのだろう。いや、たとえ息が白いことに気づいたとしても、おそらくそれが奇妙な現象だと感じるには至らないのだ。きっとあらゆるものごとはそうやって見逃されていくのだ。
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