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白線

illustrated by スミタ2023 @good_god_gold

 追い立てられるように建物から外に出ると木寺の目の前にはグラウンドが広がっていた。青や茶のタータンが敷き詰められた最近のグラウンドではなく、風が吹けば土煙の上がる昔風のグラウンドだ。高台に設けられたグラウンドの周囲には緑色の金網が張り巡らされ、金網越しに夕暮れの街並みが遠く見えていた。
「ここは?」
 振り返って訊くが、木寺をここへ追いやった者たちは建物の中に留まっていて、はっきりと姿を見ることはできなかった。アーチの奥の暗がりでいくつもの目だけがこちらをじっと見つめていた。四階建ての建物は古く、至るところに水の垂れた跡が消えずに残っている。朽ちたモルタルはところどころ激しく剥がれ落ちて、鉄骨が透けて見えていた。壁の割れ目からは雑草が生え、砂埃でべっとりと汚れた窓ガラスから内側を覗き見ることはできなかった。
 どうして自分がここにいるのか。木寺にはまるでわからなかった。家に帰ろうとしていただけなのに、気がつけばこの薄気味悪い建物の中にいたのだ。
 ふと人影が目の端に入った気がして木寺はグラウンドへ目を向けた。気のせいではなかった。一人の男性がカラカラと小さな青い台車を引きながらゆっくりこちらへ向かってやって来る。初めは老人のように見えたが、男が近づくにつれて、まだ若いことがはっきりしてきた。
 台車と思ったものはラインカーだった。男がラインカーを引きながら進むと、タイヤのついた青い金属製の箱から細かな白粉が零れ落ち、まっすぐな白線をあとに残した。
 やがて男は木寺の側までやってくると、大きな音を立ててラインカーの取っ手を地面に転がした。恰幅のいい男で、上着のボタンが今にも弾け飛びそうだった。袖には白い粉がついている。
「この線の」
 男はにやにやと下卑た笑みを浮かべたまま、後ろを見ることもせず、グラウンドを二分するように引かれた白線を肩越しに親指で差した。
「正しい側に立て」
 下卑た笑みは絶やさぬまま、命令するような口調で言う。油でぴったり撫でつけた前髪の下では、狭い額に汗が水滴のように浮いていた。
「は?」
 木寺の眉根がぎゅっと寄った。
「正しい側だよ、早くしろ」
 もともと細い目をさらに細くした男は、面倒くさそうに首を左右に振ると、いきなり木寺に近づいて膝を蹴った。
「痛あっ。何をするんですか」
 蹌踉けてその場に腰を落とした木寺は、片手で膝をさすりながら男を睨んだ。
「何だよその目は。たいして強く蹴ってもいないのに、そんなに痛いはずがないだろう。大袈裟なヤツだな」
 男はそう言って、今度は木寺の背中を両手でつく。
 押されて木寺はグラウンドに転がり出た。
「やめてください」
 なんとか倒れずに足を踏ん張った木寺は、振り返って毅然とした声を出した。
「いったい何のつもりですか。そもそもあなたは誰なんですか」
「ふん」
 木寺の質問には答えず、男は上着のボタンを外すと内ポケットからハンカチを取り出し、額の汗を拭った。
「どうした? 正しい側に立てないのか?」
 そう言ってニヤニヤと笑う。
「正しいって何がですか? 何の話なんですか?」
「お前にはわからない。そうだな?」
「わかりませんよ」
「お前は、何が正しいかもわからない」
 男は両腕を大きく広げて顔を空に向けた。もうすっかり陽は落ちて、薄い雲の間から星明かりが僅かに見えていた。
 すっと風が吹いた。湿気を含んだ生温い風は妙に重く、木寺の体にまとわりついて離れようとしなかった。
「そこでいいんだな?」
 細い目の奥で男の瞳が冷たい色を帯びた。まるで目のように空けられた穴の向こう側から別の誰かが覗き込んでいるようだった。木寺の全身に鳥肌が立つ。本当はそこに男などいなくて、ほかの者が男の体を通してこちらを見ているような気がした。
「そこが正しい側だな?」
「だから、わかりません。正しいって何なんですか? いったい何の話なんですか?」
 木寺は憮然とした顔つきで首をゆっくり振った。何を求められているのかもわからない。
「俺たちのいる側」
 男の体がゆっくりと前後左右に揺れ始める。
「それが正しい側だ」
 しだいに揺れが激しくなり、どんどん速度を増していく。やがて姿がはっきり見えないほどの速さになった。
「だから、お前は俺たちのいる側にいればいい」
 ガタン。ふいに建物の中から大きな音が聞こえ、バラバラと人影が一斉に飛び出してきた。五人、十人、二十人、五十人。あの暗がりに、こんなにたくさんいたのかと驚くほどの数の人間が現れ、揺れている男を取り囲むと、それぞれ激しく体を揺らし始める。
「俺たちのいる側が正しい側だ」
 男の声がぼんやりとグラウンドを包み込むように広がっていく。薄暗いグラウンドで、男を中心に人々が輪のようになって揺れ続けている。

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