見出し画像

自称

illustrated by スミタ2022 @good_god_gold

 配膳を終えた給仕が音も立てず襖を閉じると個室内に妙な緊張感が宿った。舟盛りとは別に用意された小鍋には既に火がつき、乳白の信楽焼の縁から煮汁が噴いている。
 細く美しい竹を使った竿縁天井から続く根岸色の土壁には、赤みの強い伊部焼の器が飾られ、繊細ながらも豪奢な空間を作り出していた。
 上座に腰を据え、眼光鋭く肉付きの良い老人こそが、例の丸古会長である。さすがの木寺や伊福と雖も頭を上げるに能わず、ただ床に額を擦るばかりであった。
「上げなさい」
 丸古の特徴的な嗄れ声は二人を圧倒した。弾けるように顔を上げ、姿勢を直す。
「本日はお越しいただき誠にありがとうございます」
 まさかの謁見に木寺の声は震えていた。
「会長のお目通りが叶いまして至極光栄でございます」
 伊福もそう言ったのち、あらためて深々と頭を下げる。
 大庭に面して開け放たれた戸の向こうでは、大きな池が水面に月を映していた。歩廊に置かれた行灯が、ゆらゆらと夢のような影を落とす。
 ぐいと丸古が身を起こした。ギョロリと大きな目で二人を見やる様子は、今にも舌なめずりをしそうな塩梅である。
「ふむ。私ァはね、いわばこの業界の坂本龍馬なんだよ」
 己を戦国武将や幕末の志士に喩えたがる実業家はけっして少なくない。丸古もまたその一人であった。
「はい、もちろんですとも」
「ええ、丸古〝龍馬〟三千男会長です」
 躊躇なく二人は同意する。会長の寵を受けられるとあれば、どんな諂いも厭わない覚悟なのだ。
「君たちも、そう思うかね。うはははは」
 丸古は機嫌よく大笑いをした。嗄れ声が襖を抜けて屋敷中を響かせる。
 その瞬間。
 シャーッと鋭い音を立てて襖が勢いよく開け放たれた。
「な、なんだッ?」
 思わず三人は腰を浮かせる。急な動きによろめいた丸古はその場で尻餅をつき壁に背をぶつけた。
「痛たたたた」口の端からよだれを垂らし情けない声を上げる。
 開け放たれた襖の向こうには数名ばかり真っ黒な人影が浮かび上がっていた。
「こちらに坂本龍馬先生がいらっしゃると聞こえました」
と、人影の一人が声を発した。
「私たちもぜひ坂本先生のお目にかかりたく存じます」
 そう言いながら、先頭の数名が強引に部屋へ踏み込もうとする。
「いやいやいや、いったい何ですか、あなたたちは」
 伊福は慌てて立ち上がり、人影の前に両手を広げて立ち塞がった。
「あのですね、坂本龍馬というのはあくまでも喩えですよ」
 すぐ後ろに立った木寺が言葉をつなぐ。
「そうそう、本物じゃくて自称ですから」
「あれを見て下さいよ、ほら」そう言って丸古を指し示した。
「どうです? あれが坂本龍馬に見えますか?」
 二人は同意を求める目でリーダーらしき男をじっと見つめる。
「たしかに自称っぽいですな」
 男は納得したように大きく頷いた。後に続く人影たちもがっかりしたのか、はあと気の抜けた溜息をそれぞれ吐く。

ここから先は

226字
この記事のみ ¥ 100
期間限定 PayPay支払いすると抽選でお得に!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?