埋め樫
昨日会社から持ち帰った仕事を二階の自室で片づけたあと、利揮はひと息入れようと階段を降りて居間に入った。炬燵で母がテレビを見ながら蜜柑を剥いている。
「この蜜柑ね、汐樋渡さんとこでもらったの」
そう言って母が蜜柑の入った籠を持ち上げると、甘い香りが利揮にも届いた。
「お茶まだある?」
利揮は卓袱台の急須を指した。ずっと集中してパソコンに向かっていたせいか、なんだか逆上せているようで、冷めた茶が飲みたかった。庭の植木の間から春先の柔らかな光が落ちて、古い急須の表面を照らしている。まだまだ風は冷たいが、部屋の中で陽に当たっていればまるで寒さは感じない。
「あそこの端美ちゃんも、もう三十なんだって」
母は皮を剥き終えた蜜柑から、今度は白い筋を一本ずつ取り始めた。
近所の公園から子供たちの声が聞こえている。土曜の午後は地元の大学生が中心になってサッカー教室が開かれるのだ。
「たまにバスが一緒になるよ。会社へ行くときに」
急須は空だった。電気ポットの蓋を開ける。こちらにも水は入っていない。
「端美ちゃんと言えば、ほら。利ちゃん、あれ覚えてる?」
「何を?」
電気ポットを片手に持ち、もう片方の手で台所との仕切り戸を引き開けようとしたが、戸の端が何かに引っかかっているようで、軽く持ち上がったものの、するりとは開かなかった。
「あれよ。ほら、何だっけ」
「この扉、開けづらいな」
「そうそう、先週から何か変になってるの。硬いでしょ」
ガタタタン。
無理に力を込めると、引きずるような音を立てて戸が一気に開いた。
「おお」
危うく戸袋に指を挟みそうになった利揮は手をブラブラ振りながら、息を吹きかけた。
「利ちゃん、それ直せる?」
「え? 俺が?」
電気ポットの蓋を開け、蛇口から水を直接注ぎ入れる。
「大工の息子なんだからそれくらいチャチャっとできるでしょ」
「いや、俺は大工じゃないから」
利服は鼻白んだ。
ちょうど還暦を迎えたばかりの父が亡くなったのはもう二十年以上前のことだ。
なかなか腕のいい棟梁だったらしく、いくつかの工務店からあとを継がないかと請われていたらしいが、最期まで一人親方のまま通したのだった。生きていれば八十になるが、まだ現場に出ていただろうか。隠居した父の姿は想像できなかった。
「扉は閉めてね。風が入ってくるから」
母はようやく蜜柑を一房口に入れた。
電気ポットに水を注ぎ終えた利揮は居間へ戻った。卓袱台へ置いたポットにケーブルをつないでスイッチを入れると、オレンジ色のランプがパチと灯る。
「そうそう。ほら、端美ちゃんって算盤教室に行ってたじゃない。比嘉さんの」
「そうだっけ?」
利揮は仕切り戸へ戻り、今度は両手でガタガタと揺さぶるようにしながら何とか戸を閉めた。
「硬いなあ。これやっぱりちゃんと直さないとダメだな」
閉まりきった戸をもう一度開けようとしたが、気が変わって途中で手を止めた。
卓袱台の前で畳に腰を下ろし、利揮は急須に電気ポットの湯を注ぎ入れた。
「まだ沸いてないじゃない」
「いいんだよ、温いのが飲みたいから」
わーっと子供たちの歓声が上がった。誰かがシュートを決めたのだろう。点きっぱなしのテレビ画面にはゴルフ中継が映っている。
「利ちゃん」
「ん」
湯呑みの温い茶を口に含んだまま利揮は返事をした。
「その扉、お父さんに直してもらえばいいじゃない」
口の中の茶が一気に喉に流れ落ちた。
「え?」
不意に背中に冷たい電気が流れた気がした。息が詰まったような奇妙な痛みが胸に広がっていく。
「だって、そうでしょ?」
母は得意げに笑ってから蜜柑をもう一房指で摘まみ上げ、そっと口に入れる。
いったい何を言い出したんだ。利揮は何と答えていいかわからず、呆然としたまま母を見つめた。母はこれまで一度もおかしな言動を見せたことはない。けれども歳が歳だけに、何がきっかけで記憶が曖昧になるかはわからない。そう言えば、周りでも少しずつそんな話が出ている。たいていは、入院して体を動かせなくなったり一人の時間が多くなったりして、だんだん記憶が怪しくなるらしいのだが、こんなふうに、いきなりおかしなことを言い始めるケースもあるのだろうか。どうすればいいんだ。
利揮は湯呑みに残っていた茶をぐっと飲み乾した。
「母さん、ちょっといい?」
「何が?」
一呼吸置いてから一気に言う。
「父さんはもう二十年も前に亡くなっているんだよ」
利揮は言葉とは逆にゆっくりと仏壇を指差した。
そう言われた母がどんな反応を見せるのかを想像すると怖かった。自分の記憶が曖昧になったことを知って怯える母の姿を想像すると、胃をグッと掴まれるようだった。
母の目が大きく見開かれた。
「利ちゃん」
「母さん、大丈夫だから。まだ大丈夫だから」
利揮は畳から腰を浮かせた。大丈夫かどうかなど利揮にはわからないが、それでもまずは母を安心させたかった。医学はどんどん進歩しているのだ。きっと対処する方法はいくらでもあるはずだ。
「利ちゃん」
母はそう言ってから大きな声で笑い始めた。
「何? 母さん、どうしたの?」
「冗談よ、もう」
「え?」
「お父さんが亡くなったことを忘れるはずないでしょ」
「え?」
急に母の顔から笑いが消えた。
「ちょっと、まさか私が惚けたと思ったの?」
「母さん?」
「あんた、そんな冗談もわからないの?」
全身から力が抜けて、畳に尻がとんと落ちた。
「冗談きついよ。勘弁してくれよ」
脱力は座り込んだだけでは収まらず、利揮は上半身をへなへなと卓袱台の上へ投げ出すように突っ伏した。
庭木から鳩の鳴き声が聞こえてくる。いつのまにかゴルフ中継は大相撲中継に変わっていた。
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