見出し画像

ネバー・アスク・アバウト・イット

 夕方からパラパラと散らついている雪を避けるように庇の下へ入り、比嘉は窓のない木のドアをゆっくりと引き開けた。キュイと蝶番の軋む音が鳴る。ドアを開き切らないようにして、店内に半身を滑り込ませると、もわっとした暖気が体を包み込んだ。
 グラスを拭いていたマスターはチラリと比嘉に目を向けて頭を下げたあと、カウンターに座っている二人の男性との話に戻った。二人とも、よくこの店で顔を合わせる馴染みの客だ。
 肩の雪を払ってからコートを壁のフックにかけ、比嘉もカウンターの端に座った。
「どうも」
「こんばんは」
 客たちと軽く挨拶をしてから、比嘉はマスターに声を掛けいつものソーダ割りを頼んだ。店内に流れるBGMの中ではミュートトランペットが唸るような枯れた音を響かせている。
「で、比嘉さん、クリスマスはどうだったの?」
 年配の男性が訊いた。髪だけでなく髭も白い。
「それが結局仕事が終わらなくて」
 比嘉は肩をすくめた。
「そりゃ奥さん怒っただろ」
「まあ、もう毎度のことなので怒るというよりは呆れられてます」
「可児さんはどうなんですか?」
 年配客に向かってもう一人の男性が訊く。丁寧に磨かれた眼鏡の銀縁が光っていた。投資家だという伊福は見た目は比嘉と同年輩なのだが、実は一回り以上も若い。いつも銀色のストライプが入った深い紺色のスーツを着ていた。
「オレは孫と一緒に買い物だよ」
「プレゼントですか?」
 比嘉が訊くと、そうそうと可児は嬉しそうな顔になった。
「ウイスキーソーダです」
 会話の隙を縫うようにしてマスターがタイミングよく飲み物を置く。
「それじゃ」
「今年も終わりですね」
 三人はグラスを持ち上げた。
「明日が大晦日なんて信じられないよな」
 可児が妙に難しい顔をして見せた。
「一年があっという間ですよね」
 大きな古いスピーカーから流れる音楽がふいにゆったりしたテンポの曲に変わった。
「これ、何て曲でしたっけ?」
 グラスをカウンターに置いた伊福がスピーカーに顔を向けるようにして訊いたが誰も答えなかった。マスターがそっと笑って首を軽く曲げた。
 比嘉もつられて笑みを浮かべる。
 流れているのはネバスクだった。『ネバー・アスク・アバウト・イット』。ジャズの名曲はなぜか略されることが多い。いろいろなプレイヤーが演奏しているが、比嘉はこのバージョンに聞き覚えがなかった。誰の演奏か訊きたかったが、この曲に限ってはそういうわけにいかない。
「これは質問しちゃいけない曲なんですよ」
「ああ、ネバスクでしたか」
 言われて伊福の顔がパッと明るくなった。全員が一斉に声を上げて笑う。『ネバー・アスク・アバウト・イット』。モンクの名曲『アスク・ミー・ナウ』の真逆のようなタイトルだ。けっしてこの曲のことを訊いてはいけない。そういうルールの曲なのだ。
 テーマが終わってピアノソロが始まった。フレーズが高音へ駆け上がったときだけ、忘れていたようにベースが低音を支え始める。
「比嘉さんは年末どうされるんです?」
 訊きながら伊福は指先でピスタチオの殻を割った。
「うーん、私はたぶん家でゴロゴロするだけじゃないかなあ」
「どこへも行かずに?」
「ええ、たぶん」
 比嘉は頭を掻いた。予定がないことをなんとなく後ろめたく感じる。
「そういう伊福さんは?」
「僕は変わらずです。海外マーケットは止まらないので」
 そう言って両手をひらひらとさせる。
「でも少しはゆっくりされるんでしょ?」
「いちおう、実家には顔を出そうと思っていますけど、僕、うどんが苦手で」
「うどん?」
「実家のうどん、生なので臭いんです」
「なんでうどんを?」
 可児が不思議そうな顔になった。
「うちのあたりでは正月に生のうどんを食べるんです」
「生の?」
 比嘉が首を傾げる。空調の風に揺らされた天井の照明が、壁にゆらゆらと影を落としていた。
「ええ、召し上がったことあります?」
「乾麺じゃないうどんってことですよね?」
「もちろん、あるぞ」
「あ、それってたぶん小麦粉を練ってつくったやつですよね。あれも生といえば生ですけど、うちのは本当の生うどんなんです」

ここから先は

1,208字
この記事のみ ¥ 100

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?