家へ帰りたい
本当はもうしばらくベッドの中で微睡んでいたいし、そのあとは、のっそり起き出してからベランダに出て、ぼんやりした頭で街の景色を眺めながら濃いめのミルクティーを二人でゆっくりと飲みたい。
そういう休日を過ごしたいのに、利揮が朝早くから部屋の中をウロウロと忙しなく歩き回るものだから、彩としてはなんとも落ち着かなかった。
布団から半身を起こして、彩はキッチンで水を飲もうとしている利揮に声をかけた。
「トシくん、せっかくうちに来てるんだから、もうちょっとゆっくりしたら?」
金曜の夜に残業をしたあと二人で飲みに行き、そのまま彩の家に泊まるのが、ここ数ヶ月のお決まりコースで、翌朝早くから利揮が部屋の中をウロウロするのも、もうすっかりお馴染みになっていた。
「俺もそうしたいんだけど、やっぱり居ても立ってもいられなくなって」
家に帰りたいのだ。帰りたくてたまらないのだ。
「このあとちゃんと帰れるんだから、そんなに焦らなくてもいいでしょ」
「わかってるんだけどさ」
利揮としては、ずっと彩と一緒にいたいし、この部屋にいるのが嫌なわけでもない。ただ、自宅から遠く離れると帰りたい気持ちが抑えられなくなるのだ。ある程度まで近ければ、そう、建物が一つか二つ離れている程度ならなんとか大丈夫なのだが、それ以上になると体が勝手に動き出しそうになる。
「やっぱり、トシくんの家に行けばよかったかもね」
「いやでも、うちは本当に寝るだけのスペースしかないから」
高い家賃を払ってまで利揮が職場のあるオフィスビルのすぐ裏に小さな部屋を借りているのは、そうしなければ仕事にならないからなのだ。
「それに、ひどく羽が散らばってるし」
「ええっ? だって先月掃除したばっかりじゃない」
彩はゆっくりとベッドから脚を下ろした。足の裏が冷たい床に触れるとピクリと跳ねそうになる。両腕で枕を抱えたままキッチンまで進み、ポットの湯を確かめた。
「すぐに溜まっちゃうんだよ、羽って」
そう言いながら利揮はサッシ戸を引き開けてベランダへ出た。まもなく春だとはいえ、まだまだ肌寒かった。それでも陽が差すと光の当たったところはポカポカと熱を帯びてくる。
熱い紅茶を注いだマグカップを手にした彩もベランダへ出て利揮の隣に並んだ。利揮は首だけをひょいと動かして、自分の家がある方角をじっと見ている。世界中どこにいても、自分の家がどの方角にあるのかが利揮にはわかるのだ。
「紅茶、飲む?」
彩から受け取ったマグカップにそっと口をつけ、啜るように紅茶を一口飲んでから、利揮はクルッと喉を軽やかに鳴らした。
「もう行っちゃうの?」
「やっぱり帰らなきゃ」
「うん、わかってる」
彩はそっと微笑んだ。
「それが伝書鳩の仕事だもんね」
確実に家に帰る。それが利揮の仕事なのだ。
ここから先は
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?