わからない人たち
首都の空には視界をすべて覆い尽くす巨大な円盤が浮かんでいた。銀色の光沢がなめらかに張りついた表面は丁寧に磨き上げられた金属製品のように傷一つ無く、真下に広がる都市の建物や口をぽかんと開けたまま見上げている人々の姿が鏡のように映り込んでいた。
直径はおよそ百五十キロメートル。円盤の両端はそれぞれ隣の都市の上空にまで及んでいる。
巨大な円盤はどう見ても地球の外からやってきたものとしか考えられず、このニュースが伝わるとたちまち世界中がパニックに陥った。
これまで地球外生命の存在を信じ、彼らとのコンタクトを望んできた者たちでさえ、そのあまりの巨大さに圧倒され、心の内から沸き上がる恐怖を抑えることができなかった。
「対応を誤れば、どうなるかわからない」
大統領が恐れたのは円盤ではなく、人類の、あるいは宇宙の歴史に汚名を残すことだった。大統領はすぐさま自分で判断することを放棄し、国際社会に助けを求めた。責任を丸投げしたのだ。
「いつ現れたんだ」
急遽オンラインで開かれた国際会議のモニターの中で、議長はイライラした態度を隠そうともしなかった。たとえ何の責を負っていなくとも、国際的な問題が起こればとにかく批判される立場なのだ。
「わかりません」
世界中から呼び集められた専門家の一人がきっぱりと答えた。
「いつ現れたのかがわからないとは、どういうことだ? それくらいはわかるだろう?」
ヨーロッパの某国を代表する外交官が首をひねった。
「本当にわからないんです。国際宇宙ステーションの望遠鏡でも観測できなかったので」
「あんなに大きいんだぞ。どうして見落とすんだ」
議長は声を荒らげた。
「わかりません。たぶんいきなりあの場所へ現れたのでしょう」
別の専門家が答えた。
「では、どうやって現れたのだ?」
「それも、わかりません。ふと気がつけば、あそこにいたわけでして」
「結局、君たちには何もわからないんじゃないか」
議長はモニター越しに参加者全員をじろりとにらみつけたが、参加者が多いため小さく分割された画面の中ではたいした威嚇にはならなかった。
わかっているのは、地球のものではないことだけで、そのほかは何一つわからないままだった。
いつ、どうやって出現したのか。どこから来たのか。そして、何のために地球へやってきたのか。誰にもわからなかった。
何よりもわからないのは、円盤がずっと空に浮かんだまま一切の動きを見せないことだった。
出現してから一週間近くが経とうとしていたが、上空の衛星から撮影された円盤は、現れたときと同じ位置のまま、あいかわらず銀色の光沢を見せていた。日の出の陽光に黄味を帯び、夕陽には赤く染まった。夜には月や星の光を反射してキラキラと輝いていた。
一方、空を覆われた地上では月や星はおろか太陽の姿さえまともに見ることができなくなった。街は昼間でも雨の日の夕暮れのように薄暗く、人々の気持ちをどんよりと沈ませた。
もちろん専門家たちは、ただ手をこまねいているだけではなかった。未知なる文明とコミュニケーションを図ろうと、各種の電磁波はもちろん、音波や光や磁力や素粒子に至るまで、ありとあらゆる通信手段が試みられた。
だが、そのすべては水泡に帰した。
円盤からは何の反応もなく、同じ場所にただ留まり続けていた。
「もしかすると中に誰もいないんじゃないのか」
「わからない」
「いつまであの空にいるつもりなんだろう」
「それも、わからない」
あいかわらず何もわからなかった。
「ああ、イライラする」
軍の施設で一人の大佐が唸るような声を上げた。
「お前はなぜ何もしないのだ。攻めてくるなら攻めてくる、友好を結ぶなら友好を結ぶと、態度をはっきりさせろ」
そう言って大佐はモニターに映し出された円盤に憎々しげな表情で指を突きつけた。
「ふん、もう我慢の限界だ」
大佐は国防省へ赴き将軍に直言した。
「この際、リスクはできるだけ早く排除すべきです。私にお任せください」
彼にとって敵か味方かわからないものは恐怖の対象だったのだ。
将軍は深い椅子に腰を下ろし、黙ったままじっと大佐を見つめたが、その眼差しからは何の表情も読み取ることができなかった。大佐もしばらく黙っていたが、やがてきびすを返し部屋から出て行った。
円盤が出現してから十日目、突然、円盤の表面に青白い火花が散った。初めは雷雲からの放電が円盤近くの空気をプラズマ化して光ったのだろうと思われたが、それは文字通り火花だった。火花はしだいに数を増し、やがて激しくなるとともに赤い火花も混ざり始めた。次々に散る火花は重なり合いながら、円盤の表面に広がった。
「いったい何が起こっているんです?」
国際会議の議長が問い合わせてきた。
「それが」
大統領は口ごもった。
「もしや、これもわからない?」
「いえ、わかっています」
議長がその言葉を聞くのは久しぶりだった。
「ほう」
思わず声が出た。
「で、何がわかっているんです?」
「あの火花は、わが軍による攻撃です」
「なんだって?」
いつまで経っても動きを見せない円盤に業を煮やしたあの大佐が、上層部に無断で攻撃を仕掛けたのだった。
対空砲が淡い煙の尾を引きながら上昇し、円盤の表面で火の塊と化した。上空からはドローンが何発ものミサイルを撃ち込み、これもまた燃えさかる火球となった。
永遠に続くかと思われるほどの激しい攻撃が繰り返されるうちに、いつしか円盤は炎に包まれた。
地上の人々は驚きと喜びと恐怖を感じながら、真っ赤になった円盤を見つめていた。
「これで不確定要素はなくなった」
大佐が高らかにそう宣言した次の瞬間、ずるりと皮がむけるように炎が円盤から剥がれ落ち、地上へ向かって落下を始めた。あれほど激しく燃え上がっていた炎はすぐに暗い揺らめきに変わり、地上へ着く前に風の中へ消えていった。
空には再び鈍い銀色に輝く巨大な円盤が残された。
人々は震え上がった。未知の文明に対して一方的に攻撃を仕掛けたのだ。
「なぜあんなことをしたのだ」
将軍は大佐を怒鳴りつけた
「わかりません」
円盤を攻撃したい気持ちはあったものの暴走するわけにはいかない。大佐にもそれくらいの分別はあった。彼の最後の一歩を後押ししたのが何だったのか、大佐自身にもわからなかった。
むろん将軍にも非はあった。実のところ、大佐が攻撃を仕掛けていることを知りながら黙認したのは将軍だったのだ。
「報復されると思うか?」
議長が尋ねた。
「わかりません」
専門家も各国の首脳たちもいつもの言葉を口にした。
「円盤が」
モニタ越しに悲鳴のような声が会議の参加者たちの耳に届いた。叫んだのは円盤の映像を監視している専門家だった。彼女を映し出す画面の枠が点滅している。
「円盤に動きがありました」
そう言って彼女が手元を操作すると、モニター画面いっぱいに円盤が映し出された。隣の都市から撮影されたもので、画面の上部には長細い楕円が手前から奥へと伸びていた。
「これを」
画像が拡大された。円盤の中央あたりが液体のように溶け、その中から一条のまばゆい光線がまっすぐ地上に向かって放出されていた。
「いったいなんだ?」
「わからない」
誰かが訊き、誰かが答えた。円盤が出現してから何度となく繰り返されてきた問いと答えだった。
円盤からの光線は大統領府の前にある公園の広場に注がれていた。薄暗い街の中でそこだけが昼のように明るくなった。
光の外側をぐるりと取り囲んだ専門家たちは、見えない壁に阻まれたかのように誰もその中へ足を進めようとはしなかった。
「あっ」
誰かが声を上げた。広場へ差し込む光の内側に、さらにもう一条の光線が加わったのだ。二重になった光の筒はやがてそれぞれ逆方向へゆっくりと回転を始めた。内側の光と外側の光が織りなす干渉縞が周りにいる人々の顔に不思議な幾何学模様を描いた。
「ああっ」
また誰かが大声を出した。見ると専門家の一人が頭上を見上げ円盤を指さしていた。一斉に指の示す方向を見た人々は、ぞくりと背筋に冷たいものが走るのを感じた。
ゆっくりと光の筒の中を降りてくる一つの影があった。
「まさか異星人?」
「わかりません」
まだ数百メートルほど上空にいるので、ぼんやりとした形しかわからないが、それでも今ここにいる地球の人類とそれほど大きく形が異なっているようには見えなかった。
報復に来たのだろうか。
「くれぐれも丁重に」
誰かが小さな声で言った。
二百メートル、百メートル。影が地表に近づくにつれてだんだん異星人の姿がはっきり見えるようになった。専門家たちは目を懲らした。
五十メートル、二十メートル。
ついに異星人が地表に足をつけた。武器らしきものは何も手にしていないように見えたが、どんな技術を持っているのかはわからない。その気になれば、この惑星を丸ごと破壊できるのかもしれないのだ。
二重に回転していた光の筒がすっと動きを止め、地表から上空へ向かって上っていくように消えていった。
人々は黙ったまま、目の前に出現した未知なる文明からの訪問者を驚きの目で見つめていた。今、その誰もが同じことを思っていた。
あまりにも人類に似ている。いや、人類と言われたら信じてしまいそうだ。地球の人類で言えば中年男性といったところだろうか。緩めのスラックスにワイシャツを組み合わせた服装が、よりいっそう地球の中年男性を思わせた。
異星人が軽く足を一歩踏み出すと、それまで光の筒を取り囲んでいた人々が一斉に後ずさった。輪が一回り大きくなる。
しんと静まり還っていた広場にざざっと砂のこすれる音が響き渡った。
「どうも」
異星人はそう言って片手を軽く上げた。
専門家たちは呆気にとられたような顔つきになり、互いにそっと目を見合わせた。
「どうして言葉が通じるんだ?」
「わかりません」
小声でひそひそと言葉を交わす。円盤が出現して以来、わからないことだらけだった。
「ここ、地球ですよね?」
異星人が訊いた。
「そうです」
専門家の一人が震える声で答えた。
「ああよかった。違っていたらどうしようかと思って」
異星人はホッと安堵の溜め息を吐いた。どうやら今すぐ人類に危害を及ぼすつもりはなさそうだった。いつしか大きくなっていた輪が、ほんの少し縮まった。
「あのう」
一人の外交官がおずおずと手を上げた。
「なんでしょう?」
異星人は彼女に向かってにっこりと優しげに微笑むと、首をくいっと傾けた。
「地球へは何をしにいらっしゃったのですか」
「ああ。それが私にもわからないんです」
そう言うと困惑したような顔つきになった。
「わからない?」
「上司に行けと言われまして」
「上司?」
「で、着いたら指示を出すからといわれてるんですけど、指示が来ないんですよ」
「相談すればいいんじゃないですか?」
「それが上司との通信に使う装置が壊れたみたいなんですよね」
「修理すればいいのでは?」
別の外交官が尋ねた。
「いやいやいや、無理ですって。私は機械の専門家じゃありませんから」
「でも、ほかの星からやってきたんですよね?」
「はい」
「だったらそれくらいの技術力はあるんでしょう?」
「いやあ、ほら、私は使うだけですからね。どういう仕組みなのかはわかりませんよ」
そう言って肩をすくめる。
「じゃあ、機械が壊れたときはどうするんですか?」
「普通は修理に出しますね。まあ、動かせないものなんかは修理の人に来てもらうこともありますけど」
「それじゃ、本当に仕組みをご存じないんですか?」
「はい。もうさっぱりです。そっち方面は昔から苦手で」
口では苦手だと言いながら、どこか得意げな顔だった。
「だったらあの円盤は?」
「円盤?」
「あれの仕組みもわからない?」
興味津々に訊いたのは航空宇宙学のエンジニアだ。
「そりゃそうですよ。あれがなんで飛ぶのかもさっぱりわかってません」
「原理がわからないのに操縦できるんですか?」
「ええ、行き先を言ってボタンを押すだけですからね」
「原理も知らずに使っているなんて」
専門家の一人が呆れた声を出した。
「えっ? みなさんは違うんですか?」
異星人が驚くような声で訊き返すと、専門家たちはその場で考え込み始めた。
日常的に使っている道具や装置は、もちろん専門分野のものであれば原理も仕組みもわかっているが、たしかにほとんどはわからないものだらけだった。複雑な集積回路を使っている電子機器はもちろんのこと、お湯と水が混ざり合う混合水栓だって、あの中がどうなっているのかはわからない。自分では車の故障一つ、配水管の詰まり一つ直せないかもしれない。原理も知らずに使っているのだ。
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