ガケとハシ
小学校は小さな山の上にあって、サバクの家は隣の山の集落にあるから、学校へ通うためにはいちど街へ降りてから学校のある山を登らなければならなかった。
町営の登山バスもあったが、それは大人の乗るもので、バスを利用している小学生はほとんどいなかった。悲鳴のようなエンジン音を出しているのにのんびりとしか走らない青色のバスは一時間に一本しか来ないから、うっかり乗り過ごしたら歩いて上り下りするほうが早かった。
山といっても標高は三百メートルほどで、その後ろにそびえ立つ千メートル超えの連峰に比べればたいしたことはなかったが、それでも毎日の登下校には二時間半ほどかかった。もっとも山の人たちには当たり前のことで、そんなものだと思っているから子供も親も気にすることはなかった。
ふだんの登下校ではみんなで遊びながら、山を登ったり下ったりしているのだけれども、遅刻しそうなときや急いで帰りたいときには街まで降りずに近道を使った。
サバクたちは山と山の谷を越えるその近道をガケとハシと呼んでいた。
ガケはその名の通り二十メートルほどの切り立った崖で、一見ハーケンやロープなしでは上り下りできないように見えるが、決まった岩に決まった順番で手足を置けばそれほど苦労せずに通ることができた。
学校からはガケを通ることは禁止されていて、ときどき先生が見張っていることもあったが、ガケを通れば往復の二時間半が四十分ほどになるのだから、集落の子供であれば誰でも一度はガケを上り下りしたことがあるはずだった。
「今日はお前もガケを通れよ」
一つ年上のタクヤにそう言われてサバクが初めてガケを下りたのは二年生の時だった。
「でもガケは禁止だって先生が」
「先生なんか関係ないよ。なんだよサバク。お前、ガケが怖いのかよ」
「うん。怖い」
切り立ったガケを下りていく上級生をガケの上から何度か見たことはあったが、自分があの道を通れるとは思えなかった。
「大丈夫だって。教えてやるから」
タクヤから手足の置き場所を教わりながサバクは十分ほどかけてガケをなんとか下り切った。あまりにも怖くて途中で身動きが取れなくなったのだが、タクヤがもう一度ガケを上ってきて、手本を見せてくれたのだった。
それから何度もガケを通るうちに体が自然と動くようになった。足元を見なくてもどこに何があるのかわかった。勝手に手足が動いて正しい順番で岩を踏むことができた。
みんなは上るよりも下るほうが難しいと言うのだけれども、サバクは下るほうが好きだった。五年生にもなると二十秒ほどで下れるようになっていて、そんなスピードでガケを下りられる子供はサバクのほかには一人もいなかった。
「お前はガケを下りてない。走ってるんだよ」
いつだったかタクヤが呆れるような口調でそう言ったが、それは正しかった。
コンクリートの柵を乗り越えたら赤いペンキで描かれた目印を狙って飛び降りる。大きな岩に右足をついて左側にジャンプしたら横から飛び出している切り株に片手を引っ掛けて体を回すようにしてさらに下へ飛ぶ。右、左、右、左とテンポ良く岩を蹴ったらもう殆ど終わりだ。最後の数メートルは砂地になるので足の回転を小さくして沢に入る前にスピードを緩める。
「ほら、みんな早く来いよ」
猛スピードでガケを駆け下りて振り返り、もたもたと下りてくる子供たちを見るとサバクはいつも得意な気持ちになった。
深い谷を流れる三十メートルほどの幅がある川には二本の橋が架かっていて、集落の子供たちは上流側の橋を上の橋、下流側の橋を下の橋と呼んでいた。どちらの橋を渡るにしてもガケを下りたあとに移動しなければならず、しかも橋を渡った先で集落への近道に入るには、またしてもしばらく歩かなければならなかった。川には橋のほかに水道を通すための鉄パイプが何カ所かに設置されていた。ちょうどガケを下りた目と鼻の先にコンクリート製の堤からにょっきりと顔を出した直径十五センチほどのパイプが二本並んでいて、伸びた先は向こう側のコンクリートの中へ同じように飲み込まれていた。これがハシだった。
両手を広げてうまくバランスをとりながらハシを渡れば、集落への道にそのまま入ることができた。青色のペンキで塗られた古い鉄パイプは人が乗ると撓んで上下に揺れたし、丸みがあってうっかり足を滑らしそうになるから、平気でガケを通っている子供たちもさすがにハシを渡ることは殆どなかった。
ガケを猛スピードで駆け下りるサバクもハシは渡らなかった。みんなと一緒に度胸試しで渡ろうとしたことはあったが、パイプの上を歩き出して数歩のところで足が止まってしまって立っていられなくなった。ガクガクと足を震わせながらサバクはそのままパイプに跨がった。
「下を見るな」
そう言われたのに、うっかり二本のパイプの間から下を覗くと、遥か眼下を流れる川に吸い込まれてしまいそうになった。すうっとハシの下を山鳩が飛び抜けていった。サバクはパイプに跨がったまま前にも後ろにも進めなくなった。
足でしっかりとパイプを挟み込み両手をパイプに置いてじっとしていると、パイプの中を水が流れていくのがわかった。そうやって、しばらく体を硬直させていたサバクは、やがてパイプの上を這うようにして川のこちら側へ戻ってきたのだった。ようやく堤へ帰り着いたときには口の中がカラカラに乾いていた。両手はパイプのペンキで青くなっていた。
「ハシはもう渡らない」
サバクはそう決めた。
五月の半ばになると山は春の香りと夏の匂いが入り交じるようになった。まだそれほど気温は上がっていないが、肌に日が当たればジリジリと焼ける感覚があった。
その日は一度家に帰ったあとコブシ原に集まって野球をする約束になっていたので、サバクたちは当然のようにガケを下りることにしていた。いつものように素早くガケを駆け下りたサバクは堤の天端に立って、ぼんやりと川表を眺めていた。昨夜降った激しい雨の名残で水かさはずいぶん増していて、透明な水は茶色く濁っていた。折れた木の枝が何かに引っかかっているように同じ場所でぐるぐると回り続けていた。ハシも濡れているのか、いつもよりも青い色が濃くなっているようだった。
「ハシ渡れよ」
後ろから声が聞こえてサバクは振り返った。ガケを下りてきたほかの子供たちもいつのまにか天端に上がって川を覗き込んでいた。誰が言ったのかはわからなかったが、言われたのが誰なのかはすぐにわかった。六年生のフーちゃんだった。山の子供たちはみんな彼を本名の風介ではなくフーちゃんと呼んでいた。
フーちゃんは体は大きいのに勉強も運動もあまり得意ではなく話しかたものっそりとしているから、六年生なのによく下級生からもイタズラの的にされていた。背中にオナモミの実を大量にくっつけられてもカバンの中をトカゲの尻尾だらけにされても怒ることはなく、ちょっぴり困った顔をして
「もう、やめてよ」
と、小さな声で言うだけだった。何をやるときでも動作が遅く、いつも下級生のあとからのそのそとやって来るフーちゃんのことを子供たちはこっそりバカにしていて、だからといって仲間はずれにするわけでもなかった。
「フーちゃんなら渡れるよ」
「ほら、渡ってみなよ」
集落の子供たちは風介を取り囲むようにして囃し立てた。
「イヤだよ。怖いよ」
風介はハシが見えなければいいと思ったのか、ぎゅっと目を閉じ、大きな体を縮こまらせるようにしてかぶりを振った。
「フーちゃんさ、渡ったらヒーローだぜ」
ちらりとハシに目をやってからタクヤは勿体ぶった口調で言った。
「サバクだって渡れなかったんだぜ」
「そうだよ。俺なんて渡ろうとしたけど途中でやめちゃったもん」
そう言いながら、あのときのことを思い出したサバクは背筋に冷たいものが流れたように感じた。
「フーちゃん、フーちゃん」
「フーちゃん、フーちゃん」
子供たちが煽るように節を合わせて手を叩き風介の名を呼び始めた。
「さあ、能賀風介選手がハシを渡ります。さすがです」
片手にマイクを持った格好をして、サバクはスポーツ実況風の口調になった。
しばらくじっとハシを見ていた風介は、ゆっくりと天端のハシに腰を下ろして体の向きを反転させると、両手で堤に掴まりながらゆっくりと片足を鉄パイプの上に乗せた。濡れていたのか一瞬ずるりと足底が滑りそうになったが何とかそのままうまく踏みとどまり、もう一方の足もハシの上に置いた。そうして堤壁に背中をつけて両足で静かに立った。
「フーちゃん、フーちゃん」
「渡れ、渡れ、渡れ」
「能賀選手、いよいよ最初の一歩です。人間にとっては小さな一歩ですが、人類にとっては偉大な一歩です」
風介は両腕を不安そうに広げながらゆっくりと歩き始めた。一歩進んでは足を止め、しばらくバランスをとってから大きく深呼吸をして、ようやくまた次の一歩を踏み出した。何歩か進んだところでいくぶん慣れたのか、歩く速度がほんの少し速くなった。足を進めるたびに鉄パイプが上下に揺れるのが天端からもはっきりとわかった。
「フーちゃん、絶対に下を見るなよ」
風介がハシを三分の一ほど渡ったところでタクヤが声をかけた。それまで真正面に向けられていた顔が僅かに下がって、そこで風介の足がピタリととまった。どうやら声に釣られて思わず下を見てしまったようだった。
「フーちゃん、がんばれ」
「無理だったらもどってこい」
子供たちが次々に叫んだが風介はその場から動こうとしなかった。
「もうパイプに跨がっちゃえ」
サバクも大声を上げた。
やがて風介の膝が撓むように左右へガクガクと震え始めた。震えは膝から背中を伝って両腕まで広がった。鉄パイプの上で体を強張らせたまま震えていた風介は、ゆっくりと首を回してこちらを見た。細い目がいっそう細くなっていた。困ったような悲しそうな、何とも言えない複雑な表情だった。上半身を捻ったせいで風介のバランスが崩れた。片足ががくんと下がったのがサバクにもわかった。
「ヤバい」
「フーちゃん」
子供たちの声が届くよりも、風介の体が鉄パイプの上で不自然に傾くほうが速かった。次の瞬間、風介は谷へ落ちた。長く伸ばした手が鉄パイプに当たってカーンと高い金属音を立てたが、すぐに流れる川の音にかき消されてしまった。
「うわああああ」
「フーちゃあああん」
子供たちは身を乗り出すようにして川を覗き込んだが、茶色く濁った流れがただ続くだけで風介の姿はどこにも見当たらなかった。
「どうしよう」
サバクは呆然と川を見つめていた。俺たちが囃し立てたのだ。嫌がるフーちゃんを無理に渡らせたのだ。
「すぐ先生に言わなきゃ」
「警察だよ警察だよ」
何人かの子供たちが泣き出した。
たいへんなことになってしまった。たいへんなことをしてしまった。サバクの全身が冷たくなった。歯の根が合わずガチガチと顎が震えていた。このままじゃ俺たちの責任になってしまう。サバクはフーちゃんが落ちたことよりも、怒られることを心配している自分に気がついて愕然とした。
「俺たちは知らないから」
タクヤが言った。
「え?」
サバクの目が驚くほど大きく見開かれた。
「俺たち、今日はフーちゃんといっしょじゃなかったから」
「でも」
「黙ってろ」
反論しようとしたサバクをタクヤが強く睨み付けた。これまで一度も見たことのない恐ろしい目つきだった。
「みんなわかってるな。絶対に秘密だぞ」
タクヤは恐ろしい目をしたまま、子供たちをゆっくりと見回した。
家に帰ってからもフーちゃんが落ちていく姿がサバクの頭から離れなかった。みんながコブシ原で野球をやっているのかどうかは知らなかったが、たとえやっていたとしても行く気にはなれなかった。夕飯は要らないと言って、まだ陽が落ちきる前からベッドに潜り込み頭からすっぽりと布団を被った。目を閉じるとフーちゃんの姿が浮かんでくるので、真っ暗な布団の中でじっと目を開けて、見えない何かを一生懸命に見つめようとした。
翌朝、サバクはひどく寝坊したがガケは通らずに学校へ向かった。山道を走るように駆け上がり、息を切らしながら学校へ到着したときには、もう一時間目の授業が始まろうとしていた。授業中もずっとフーちゃんのことを考えていたせいで、先生に当てられても何も答えられず、まわりの子供たちから笑われた。
一時間目の授業が終わるとサバクはすぐに六年生の教室へ行った。開きっぱなしになっているドアからそっと顔だけを覗かせて、中の様子を窺った。
教室の一番後ろにあるフーちゃんの席には誰かが座っていた。見たことのない男の子で、まわりの子供たちの話を黙ってニコニコと聞いているようだった。
サバクは六年生の教室へ静かに入っていった。
「サバクじゃん、どうしたんだよ?」
入ってすぐに声をかけてきたのはタクヤだった。不思議そうな顔でサバクを見ている。
「その、どうなったんだろうって思って」
サバクは囁くような声を出した。
「何が?」
「だから昨日のこと」
「昨日ってなんだよ?」
タクヤは眉をひそめた。どうやら完全に知らないふりを通すつもりでいるようだった。どうすればいいのかサバクにはわからなかった。それでも、このままではいつまで経ってもフーちゃんの姿が頭から離れていかないことだけはわかっていた。
「フーちゃんのこと」
「フーちゃんがどうしたんだ?」
ますます怪訝な顔つきになってタクヤは教室の後ろを振り返った。
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