恩返し
つきっぱなしになっているテレビを、可児は見るともなくただぼんやりと眺めていた。
テーブルの上には氷が溶けて薄くなった水割りの入ったグラスとピーナツの小皿が置かれている。週末の夜はこうやってのんびり過ごすのがいい。
トンッと玄関のドアをノックする音が聞こえた。
チャイムがあるのになぜ押さないのだろう。可児は面倒くさそうにゆっくりと立ち上がり、体を大きく伸ばした。画面の中ではニューヨークの刑事がちょうど拳銃を構えているところだった。玄関まで足を運びドアスコープに片目を当てたが誰もいない。
「いたずらかよ」
可児は片手で頬をペロンと撫で回し、玄関から離れようとした。
トンッ。
再びノックの音が鳴った。
「こんな時間に誰だよ」
可児は鍵を外してドアを押し開けた。廊下に顔を出して左右を見回すが、やはり誰もいなかった。
「やっぱりいたずらか」
「あのう」
いきなり足元から声が聞こえた。
見ると小柄なフクロイタチがこちらを見上げている。全体的に濃い茶色をしているが、胸の辺りには白い綿毛が生えていた。尻尾が妙に長い。
「夜分にすみません」
丸い目をクリクリさせながらフクロイタチは短い前足を左右いっぱいに広げた。腹の袋から何かがはみ出ている。
「わたし、先日、あなたに助けていただいた者です」
「ああ、あのときの」
そう言って可児はだらしなく口を開けた。数日前に、金網に引っかかっていたフクロイタチを見かけて放してやったのだ。たいして狭くもないはずなのに、なぜかイタチは金網から外れることができず、困ったような顔をしてバタバタともがいていたのだった。なるほど、あのときのイタチが恩返しにやってきたわけだ。さて、何をくれるのだろうか。
「ええ」
フクロイタチはぺこりと上半身を曲げてお辞儀をした。
「あのときあなたに助けていただいたおかげで、わたし、エラい目に遭いまして」
「え?」
それまでいい感じで回っていた酔いが一気に覚める。
「金網から外していただいたあと、たいへんなことになったんですよ。むしろあのまま引っかかっていたほうがよかった気がします」
「いや、そんなこと言われてもさ」
可児は口を尖らせた。恩返しじゃないのかよ。眉間に皺が寄る。
イタチは腰に両方の前足を当てた。
「あなたに悪気がなかったことはわかってます。ただ、たいへんだったことはお伝えしたくて」
「わざわざそれを言いに来たのか?」
「はい」
「恩返しじゃなく?」
「まさか恩返しなんかするはずないでしょう。酷い目に遭ったんですから。あなたが自分で何をやったのか、ちゃんと知っておいて欲しいだけです」
なんとも恨みがましいイタチだな。可児は言いかけた言葉をぐっと飲み込んだ。
「それで、いったい何があったんだ?」
そう可児が聞いた途端、フクロイタチの動きがピタリと止まった。怯えたような目でどこか遠くを見ている。やがて全身が小刻みに震え始めた。
「無理です、それは言えません。思い出したくもない」
震えながら首を左右に大きく振った。そのままグイッと顔を上げて可児を見つめる。クリクリとした目の中にはまだ怯えの色が残っていた。
「とにかくそういうことですから」
フクロイタチは軽く肩をすくめたあと、腹の袋に両方の前足を突っ込んだ。
「あのときは、そんなことになるなんて知らなかったんだ」
可児の表情が硬くなる。
「いいんです。どうせ野生のフクロイタチが数匹ばかり死んだところで、あなたには痛くも痒くもないでしょうから」
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