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ママ

illustrated by スミタ2022 @good_god_gold

 準備はほとんど終わり、あとは客が入るのを待つばかりであった。丸古三千男は長机に置かれた文具類をもう一度さっと目で確認したあと、ペットボトルの水をゆっくりと口に含んだ。太細二種類のフェルトペンに落款、朱肉。万が一、色紙にサインを頼まれた場合に備えて太字の筆ペンも用意してある。遠くからこっそり写真を撮られても問題にならぬよう、ペットボトルのラベルはとっくに剥がしてあった。
「完璧だな」
 独り言のように呟いて、丸古はそっと首を回し室内をぐるり見た。書店の大会議室に設けられたサイン会場には、ぜんぶで九脚の長机が置かれている。入り口側の壁に置かれた二脚には大量の書籍が積まれており、そのちょうど対面の壁に丸古の机がある。左右の壁にはそれぞれ三脚ずつ横一列に並べられ、丸古よりも二回り以上は若い男女たちが、丸古と同じように文具を置いて座っていた。女性四人と男性二人の計六人は、B6と呼ばれる、いずれも各方面から熱い注目を集めている新進気鋭の若手作家たちによる大人気ユニットである。
 小説だけでなく、フォト・エッセイや画集、はては落書きメモを集めたものまで、とにかく出せばなんでも売れるのだ。いや、売れるどころか、まだこれから書く予定の次作、次々作まで映画化が決まっている者さえいるほどの、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いの作家集団なのである。
 開場に向けてソワソワが止まらない丸古とは違って、彼らは互いに談笑したりスマホを覗き込んだりしながら、のんびりと時間を過ごしている。B6ほどのスター集団になれば客足ごときで一喜一憂などしないのだろう。
「ふん、余裕か。余裕を見せつけているのだな」
 背中と額がじっとり濡れているのは、久しぶりのサイン会で緊張しているからなのだが、もちろん丸古だってそんな素振りは一切みせない。大ベテランを気取りつつ、さりげなく若手作家たちの振る舞いに目を配っているのであった。若手からでも盗めるものがあればどんどん盗むのだ。若い才能は摘むのではなく、巧く利用して便乗するのが丸古の主義である。
 ちらちらと彼らを見ていたはずの視線は、だがやがて暗い嫉妬の色に満ちてくる。ええい、なぜこいつらばかりが売れるのか。なぜわしじゃないのだ。あいつらとわしとでいったい何が違うというのか。若ければいいのか! 美男美女ならいいのか! 
 じっとりとした暗い視線に気づいたのか、不意に一人が丸子に向かって頭を下げた。
「先生、いよいよ始まりますね。どうぞよろしくお願いします」
 そう言われてはベテランらしく振る舞うよりほかない。
「いやいや、こちらこそよろしく頼むよ」
 丸古は咳払いをしてから着物の前を合わせ直した。

「合同サイン会はどうですか?」
と右往左往社の編集者、青谷凪亮子が提案してきたのは先月のことで、久しぶりに聞くサイン会という単語に丸古がかなり興奮しているのは誰の目にも明らかだった。
「合同とはどういうことかね? ん?」
 応接室のソファにどっしり腰を下ろしつつ、丸古は向かい側に顎をしゃくってみせた。内心ではかなり興奮しているくせに、そうは見せないようにわざとのんびりとした口調で話すのは、わしほどのベテラン大作家であれば、合同などではなく単独のサイン会を開催するのが当然ではないかという妙なプライドを言外に含ませているのだ。
 青谷凪は口を一瞬への字に曲げた。この作家はいちいち面倒くさいのである。
「でもほら、例の若手ユニットですよ」
「ユニット?」
「先生が名付けたんじゃないですか」
「ああ、あいつらか」
 そもそも彼らをB6と名付けたのが丸古なのである。
 某文芸誌からの依頼で若手作家たちの新作書評を書いた際に、途中で著者たちの名前がわからなくなり、あとから調べて直そうと、とりあえず便宜上B6と書いたものが、ひょんなことから結果的に彼らを総称する記号になったのである。
「くうっ、あのとき商標登録さえしておけば」
 今ごろは左うちわである。ウハウハである。が、悔いても時すでに遅し。誰も彼らがここまでの勢いになるとは思ってもいなかったのだ。
「まあ、わしが名付け親だからな。たしかに合同でもおかしくはないな」
 丸古は鼻を鳴らした。
「今いちばん人気のある先生たちですから、たぶんお客様もすごく並ぶと思うんですよ。そうしたら列からあふれたお客さんが、うっかり丸古先生のところに来るかも知れませんし」
 笑顔でそう言ったのは、このサイン会を企画した上野山樹乃である。さすが青谷凪の部下だけあって発言に一切の躊躇がない。余談だが上野山はいつも穴の空いた服を着ている。
「君は貧乏なのかね?」
 以前そう聞いて、秘書の渡師菱代に締め落とされたので、それ以来は聞いていないが、ずっと気にはなっている。ちなみに青谷凪はいつもヒラヒラした青い服を着ている。
「君は魚なのかね?」
 こちらにもそう聞きたいのだが、聞けば渡師に何かされそうなのでずっと我慢していた。
 丸古はジロリと二人を見た。
「つまり若者たちの人気にあやかろうと、人気者のおこぼれに預かろうと、君たちはそう言うのかね?」
「はい」
「ええ」
 青谷凪と上野山は間髪を入れずに頷く。
「だってB6ですから」
「超ブームですから」
「ねー」
 二人は顔を見合わせて頷き合った。
「いいか、君たち」
 丸古の顔が次第に赤くなっていく。
「いったいわしを誰だと思っているのだ」
 のっそりとソファから立ち上がった。ソファの傍らに立てかけてあったステッキを掴む。ちなみにこのステッキはパリの蚤の市で求めた逸品で、握り手の部分には銀で鋳られた鶏の頭がついていた。
「答えなさい。誰だと思っているのだ」
「さあ、誰ですか? ヒントをください」
 背後からそう言ったのは秘書の渡師だ。ずっと窓際に立っていたらしい。渡師が歩き始めると風もないのにカーテンが大きく揺れた。
「え?」
 いきなりヒントを求められた丸古は言葉に詰まった。
「さあ、ヒントはまだですか?」
 渡師はつかつかと丸古の正面に回った。丸古より頭一つぶん背が高い。丸古を斜め上から見下ろす格好で軽く笑うと、指先で丸古の胸をぐいとついた。
「うおわっと」
 素っ頓狂な声を上げて、丸古が尻からソファへ落ちると、どさと音を立ててソファが大きく弾んだ。手から離れたステッキがコトンと音を立てて床に転がる。
「えーっと、わしはだな、その日本の文芸界における、いわば母のような存在で……」
「母のような存在?」
 渡師はさっと片手を上げて丸古の言葉を遮った。
「何を言ってるんですか。つべこべ言わずに合同サイン会に参加なさって下さい」
 無表情を貼り付けた顔をゆっくり近づける。
「き、君までそんなことを言うのか! けしからんッ!」
 丸古の目が大きくなった。
「少しくらいわしの味方をしてくれてもいいじゃないかああああ!」
 大きな声でそう言ってから、丸古はソファ横に置かれた犬のぬいぐるみに手を伸ばした。最近丸古は、何か辛いことがあると、この小さくて茶色い布のかたまりに触れることにしているのだ。ああ、かわいいふわふわよ。わしを慰めてくれ。ふわふわよ。こうしていると母性本能がくすぐられるのだ。
 次第に丸古の目が遠くなっていく。
 無心になってぬいぐるみをなでていると、やがて心が落ち着いてきた。
「ふうう」
 大きく息を吐いてから、丸古は目の前に立っている渡師に向かって頷き、すぐに向かいのソファに座っている二人に目をやった。二人は丸古の言動などそっちのけでそれぞれスマホを覗き込んでいる。
「えーと、ごふん」
 丸古がわざと咳払いをすると、二人はまるで丸古の存在に初めて気づいたかのようにゆっくりと顔を上げた。
「あ、先生。サイン会のあと、お食事はどうされますか?」
 青谷凪はスマホの画面をこちらに向けた。どうやら地図アプリが映っているようだが、当然丸古の位置からでは何も見えない。
「キャベツの美味しいお店なら知ってます」
 その画面を横から覗き込みながら上野山が言う。 
「キャベツ?」丸古の顔が不審に曇った。ひどく困惑したようで顔のパーツが中央に寄る。
「なぜキャベツなんだ? こういう時は肉だろう」
「えっ? 先生、キャベツ嫌いなんですか?」
「そういうことじゃない。キャベツはキャベツだ。あんな草に好きも嫌いもないだろう」
 丸古がそう言った瞬間、バネの弾ける勢いで上野山が立ち上がった。
「先生は間違っていますッ」
 険しい顔で睨みながら、上野山は人差し指を丸古にぐっと突きつけた。穴の開いた服のあちらこちらから毒黒い煙のようなものが噴き出している。しばらくすると黒煙は上野山の頭上で一つの塊になり、ゆっくりと丸古に向かって移動を始めた。上野山の目がピカと緑色に光った。
「樹乃ちゃん、落ち着いて!」
 青谷凪が慌てて上野山の袖を引っ張る。
「著者を殺しちゃダメ! 丸古先生には、まだ短篇をあと百五十六本書かせなきゃならないんだから!」
「でもこの男、キャベツを草呼ばわりしたんですよ」
 そう言って丸古に一歩近づいた。
「や、やめろ、何をするんだ」
 ソファの上から逃げようと丸古は体を捻った。上半身をソファの端からはみ出させ、片手を床に着く。不自然な体勢になってしまったせいで、腰を浮かせたところで身動きが取れなくなる。
「来るな! こっちへ来るな! ひぃぃぃ」
 丸古の鼻から大量の洟水が流れ出た。
「ほら、いいから落ち着いて」
 すっと立ち上がった青谷凪が上野山の背中を優しく撫で始めると、やがて上野山の目から光が消え、黒煙がいくつもの煙筋にわかれて服の穴へ戻っていった。
「とにかくお店はこちらで選んでおきますね」
 上野山を座らせてから自分も腰を下ろし、青谷凪はニコリと笑った。
「うむ」
 何度か強く洟をかんだせいで、目を真っ赤にした丸古が頷く。
「それじゃあ合同サイン会には参加していただけますね」
「もちろんです」
 青谷凪の質問には丸古に代わって渡師が答える。丸古が首を上げて渡師に顔を向けたが、渡師は丸古の頭を片手でぐっと掴んで無理やり正面に向き直らせた。
「人気の種類が違うとお考えになってはいかがでしょう」
 漸く落ち着いた丸古に向かって渡師が言う。
「種類?」
「ええ、先生の人気とB6の人気は種類が違うんですよ」
 丸古はしばらく不思議そうな表情を見せていたが、やがて両手をパンと打った。
「そうか。あいつらの人気は本質的な能力や人間の深みとは関係ないのだ! そうだっ! それに違いない。わしのほうが圧倒的なのだ!」
「そうですよ、先生」
 青谷凪が大きく首を縦に振った。
「ですです。B6のみなさんは、ちょっとスマートで、ちょっと顔がよくて、あとは書くものがおもしろくて、その上いろいろと考えさせられるから、みんな夢中になっているだけなんです。先生とは真逆ですよ!」
 上野山も祈るように両手を組み合わせて言う。
「そうだろう、そうだろう」
 丸古は満足げに頷いた。
「先生はみんなを包み込む母親のような存在ですから」
「ふはははははは、青谷凪くん。君はよくわかっているじゃないか。ふん。合同サイン会か。受けて立とうじゃないか」
「それでこそ先生です」
「ありがとうございます」
「任せておきなさい。あの若造どもをぎゃふんと言わせてやるわ」
 喜び手を叩き合う二人の編集者を前に、丸古はやたらと胸を張って見せた。

「それでは開場します」
 書店の担当者が合図をするのと同時に、大会議室の入り口に人の波が溢れ出す。丸古は唖然とした表情で迫り来る客たちを見つめていた。丸古のいる机へまっすぐ向かって来るように見える客は、大きな濁流となって部屋の中央で左右に分かれ、六人の若手作家たちの前で長い行列をつくった。まるで『出エジプト記』に描かれたモーセの海割りだ。
「順番です! 順番に一列でお願いします!」
 店員たちが大きな声を上げるが、その声はB6を前に興奮した客のざわめきの中へ吸い込まれていくようだった。列は幾重にも折り返し、会場の中央から入り口へと続いていく。
 若い六人は、並み居る客たちと一言二言ばかり軽く言葉を交わしながら、テキパキと笑顔でサインをこなしていく。
 慣れている。あいつら慣れているじゃないか。丸古はB6のメンバーたちに向かって、じっとりと粘り気のある視線を送り続けているが、誰もその視線に気づくことはなかった。
 会場から三十分近く経っても、まだ丸古の元には一人の客も訪れていない。
「先生~、丸古先生~」
 不意に名前を呼ばれた気がして、丸古はハッと我に返った。声の出所を探して視線を泳がせる。
「先生~」
 青谷凪と上野山が向こうの列の中から手を振っていた。あれはB6の一人、砂原の列だ。
「あとでちゃんと寄りますから~」
 そう言って二人は人波に飲まれていく。
「ぐぬぬぬ! あいつらめ! あいつらめえええっ!!」
 丸古はパイプ椅子を倒さんばかりの勢いで立ち上がった。そうして、机の上に転がっていた筆ペンを掴み、そのまま猛烈なスピードで壁際に向かって走り出した。
「うわああ」
「ああっ」
「ええい、退け退け退けえええ!」
 ぶつかった何人かの客が派手に床へ転がったが、丸古は気にも留めず砂原の席がある壁際まで一気に走り抜けた。
「はあ、はあ、はあ」
「あ、丸古先生。どうなさったんですか?」
 荒い息を吐き、肩で呼吸する丸古に向かって、砂原が憎らしいほど爽やかな笑顔を見せる。
「君は、わしの、はあ、はあ」
「とりあえず、ここにお座りください」
 砂原は慌てて立ち上がり、顔を真っ赤にしている丸古を椅子に座らせた。
「これを」
 床に置いてあったペットボトルの水を拾い上げて手渡す。
「はあ、はあ、すまん、はあ、はあ」
「いいんですよ」
「この人、誰なんですか?」
 ちょうど砂原のサインをもらい終えたばかりの若い男性客は、列の先頭から去らずに尋ねた。
「丸古三千男先生ですよ」
「まるこ?」
「僕たちB6の名付け親です」
 そう言って砂原は丸古に優しい目を向ける。
「ええっ! それってすごいじゃん!」
 列の中から声が聞こえた。
「すごいの?」
「だってB6の親ってことでしょ?」
 別の声が言う。
「ええ、そうですね。そうとも言えます」
 砂原がうなずいた。
「えー、だったら先生のサインの横に、ママって書いてもらえませんか?」
 先ほどの男性客はそう言って、砂原のサインが書かれたページを開く。
「ママだと?」
「だってB6の親なんでしょ? 別にパパでもママでもいいんですけど」
「ああ、もちろんだ。いや、もちろん、ママで構わないとも」
 わしはそういう偏見は持たないのだ。そう。男がママだっていい。いや、むしろそうあるべきだ。
 漸く息の整った丸古は、手にした筆ペンのキャップを口で外し、開かれたページに筆を走らせた。
 ママ。
 見事な筆致だった。ふうむ。我ながら美しい。
「あ、私もママってお願いします」
 次の客からも頼まれ、さらにその次の客からも同じように頼まれる。
「ママ、私も」
 やがて隣の席に座っている作家の前に並ぶ客からも、さらには反対側の壁際からのびる行列の客からも、次々にサインを求められ始めた。
 ママ。
 求められるまま著者名の隣にそう書いていく。何だこれは。こんなにサインを求められるのは初めての体験だ。興奮が全身を貫く。
 もはや丸古も三千男もない。ママである。ママと書くしかないのだ。今ここでは、わしはママなのだ。ママであることを求められているのだ。丸古三千男などどうでもいいのだ。
 ママ。
 ママ。
 ママ。
 ひたすら書き続けているうちに、だんだん自分は元からママという名前だったような気がしてくる。頭がぼんやりとして、やけに光が眩しく感じられた。人々のざわめきはどこか遠くから聞こえてくるようで、手元で動かしている筆ペンの立てる音だけがシュッと耳に残っていく。熱くもなく寒くもない柔らかな空気にすっぽりと全身を包まれ、無我夢中で手だけが動き続けている。
「いじょう」
 不意に何かが耳の奥に刺さったように感じた。
「いじょうぶ」
 言葉の意味がわからない。聞こえてはいるが理解できないのだ。
「いじょうぶです」
「大丈夫ですか!」
 ようやく何を言っているのかがわかった。それまで微睡みの中を漂っていた五感が一気に現実へ引き戻されていく。

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