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オルゴール

illustrated by スミタ2023 @good_god_gold

 不動産屋の隣にある雑居ビルにはエレベーターがなかった。天豊建萌は息を切らしながら狭く急な階段を四階までゆっくりと上がった。腰の痛みがひどく足を上げるのが辛かった。天井の照明は切れていて、モルタルを塗った灰色の壁には水が垂れ落ちたような染みが跡を残していた。
 開け放たれた窓から秋風がひゅっと吹き込み、階段の踊り場に溜まっていた落ち葉を舞いあげた。
 分厚い磨りガラスの嵌め込まれた小さなドアを押し開けるとすぐ目の前に横長のカウンターがあった。カウンターの上には受付と書かれた白いプラスチックのプレートが置かれている。
 カウンターの向こう側から一人の老婆が建萌を値踏みするような目でじろりと見た。
「いらっしゃい」
しわがれた声で言った。 
「さっき電話をした人だね」
 老婆はでっぷりと太っていて、それなのに顔はやけに小さいものだから、なんだかまるで鏡餅のようだった。太っているのを隠そうとしているのか、首の周りと肩にひらひらとしたフリルのついた紫色のゆったりとしたワンピースを来ていたが、それがかえって彼女を大きく見せていた。太い指には派手な指輪をいくつもはめていた。
 建萌はたった今、自分が上ってきた階段を思い出した。このビルにはエレベーターがないのだ。あの狭く急な階段をこの老婆も毎日上り下りしているのだろうか。
「そこで脱いで」
 そう言って老婆は入り口の脇にある靴箱を指差した。
 建萌が靴を脱ぎスリッパに履き替えたのを見てから、老婆はのっそりと立ち上がった。足は妙に細く、鏡餅の底に箸を二本刺したようだった。
「こっちだよ」
 老婆に言われるまま建萌は奥の部屋へ進んだ。窓に厚手のカーテンをかけた八畳ほどの部屋は薄暗く、鼠色をしたカーペットの上には小さなベッドと折りたたみ式のビューローが置かれていた。ついさっきまで窓を開けていたらしく、どことなく冷んやりとした空気に湿気はほとんどなかった。ビューローは開かれていて、昔ながらの黒電話が乗っている。電話機の隣には金属製の灰皿があって、白い煙がゆったりと上がっていた。建萌はその煙に小豆のような香りを嗅ぎ取った。
「着替えはいらないね」
「はい」
 建萌はうなずいた。そのために緩い服装で来ていた。
「腰だっけ?」 
「はい」
「ふん。みんな腰なんだよ」
 老婆は面倒くさそうな顔つきでそう言うと、ビューローに近づいて、鈍い光沢を放っている黒電話の受話器を持ち上げた。どうやら電話は直接どこかへつながっているようで、老婆はダイヤルを回そうとはしなかった。
「いつものね」
 それだけをぞんざいな口調で言うとすぐに受話器を置いた。ガチャリと音を立てて受話器が置かれると、いきなり天井から音楽が流れ始めた。ひと昔前に流行した曲がオルゴールの音色で奏でられている。
「これは決まりだから」
「ええ、わかってます」
 理由はさっぱりわからないが、こういうところではオルゴール版のBGMを流すのが決まりなのだ。
 老婆に指示された建萌はベッドにうつ伏せになり、全身の力を抜いた。
「それじゃあ始めようかね」
 老婆はベッドの横に椅子を引き寄せた。
 うつ伏せになったまま建萌は、老婆の手が静かに自分の背中へ近づくのを感じた。そのまま腰を押すのかと思っていたが、老婆の手は建萌の体に触れることはなく、数センチ離れたところをふらふらと行き来している。
「あああ」
 掌を建萌の頭の上から足先までじっくりかざしたあと、老婆は呻き声をあげた。鈍い痛みを堪えているような重く苦しげな声だった。
「どうしたんですか?」
 建萌は枕に埋めていた顔を持ち上げた。
「なんでもないよ」
 老婆はそう言ってククククと笑い、そのまま黙り込んだ。
 オルゴールの音だけが静かな室内を満たしていた。風変わりだがマッサージの腕はいいと聞いてきたのだ。ひどいぎっくり腰になった先輩も、たった一日で完全に治ったと言う。だが、いつまで経っても老婆はマッサージを始めようとはしなかった。
「いつマッサージは始まるんでしょうか」
 しばらくして建萌が尋ねたが、老婆は
「どうだろうね」
とだけ言ってまた黙り込んだ。
 休日の午後の日差しは厚いカーテンを通して室内に暖かな微睡をもたらそうとしていた。初めは耳障りに感じていたオルゴールの音がしだいに馴染んで、もともとそこにあった音のように建萌の体を柔らかな高音の響きで覆い尽くした。
 何も起こらなかった。近所の公園で遊ぶ子どもたちの声と、遠くを走る救急車のサイレンが混ざり合い、オルゴールの音に溶けていった。部屋の中をほんのりと染めていた小豆の香りが強くなった。
 建萌は首をわずかに回して老婆を見た。彼女はもう建萌の背中に手をかざすこともやめ、窓のほうに向けられたぼんやりとした目で、どこか遠くを見つめているようだった。もっとも窓にはカーテンがかけられているから、実際に遠くを見ているわけではなく、空想の遠景を眺めているのだろう。じっとしていると鏡餅に見えてくる。
 もう三十分以上も建萌はこうやってうつ伏せになっているが、何が起きているのかまるでわからなかった。もはや夢なのか現実なのかわからない。こんなことで腰の痛みがとれるのだろうか。
 ジリリリリリ。
 ビューローの電話がけたたましいベルの音を鳴らし、建萌とこの部屋を包んでいた静寂を破った。
「はいはい」
 老婆はよたよたと立ち上がってビューローに近づくと、ゆっくりした動作で受話器を持ち上げ、耳に当てた。
「まだよ」
 老婆は言った。
「そんなことされたら困るでしょ」
 建萌は首を持ち上げて老婆に顔を向けた。彼女は椅子をベッドの脇からビューローの側へ動かし、どっしりと腰を下ろした。
「オルゴールじゃなきゃ意味がないのよ」
 受話器を耳に当てたまま、建萌に向かって片方の指を立てた。建萌はきょとんとした顔になって老婆の指先を見つめる。指が部屋の外を差した。
 困惑したままのっそりと体を横に向けた建萌を見て、老婆は大きなため息をついた。受話器の送話口を片手でぴたりと塞いだ。
「終わりね」
「え?」
 建萌は思わずベッドに手をついて上半身を起こした。
「代金は受付の箱に入れて」
 そう言って老婆は、すぐに電話の相手と再び話を始めた。
「あんただって、どうしてオルゴールなのかわかってるでしょ」
 声が荒くなった。
「それでひどくなったらどうするの? 責任取れるの?」
 建萌は会話の邪魔をしないように静かにベッドから降りると、そっと部屋を出た。背後ではまだ老婆が電話を続けている。
「いったい誰がオルゴールに決めたか、あんた、わかってるの?」
 老婆の声はまだ耳に届いていたが、あれほど部屋の中を満たしていたオルゴールのBGMはなぜか部屋の外ではまったく聞こえなかった。
 カウンターの裏を覗き込むと小さな箱が置かれていた。建萌は予め聞かされていた金額を数えて財布から取り出し、箱の中へ入れた。コトンと硬い音がした。
 首を伸ばし、部屋の奥を覗き込むようにして軽く頭を下げると、建萌は踵を返してそのままドアを引いた。
 踊り場は西陽が差し込んでいるせいで、来た時よりもいくぶん明るくなっていたが、それと引き換えるように窓から吹き込む風は冷たくなっていた。
 建萌はあの狭く急な階段をゆっくりと降り始めた。思いのほか足が軽い。気づけば、いつのまにか腰の痛みが消えている。いったいどうしてなんだ。老婆は何もしていないのに。
 三階へ向かう中間踊り場で足を止め、建萌は不思議な面持ちでさっき出てきたばかりのドアを見上げた。踊り場の窓から、微かにオルゴールの音色が聞こえたような気がした。
 

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