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一番いい思い出

 高い天井に取り付けられた薄暗いダウンライトから落ちる明かりは、部屋のところどころに楕円形の光円をつくりだし、メインモニターからの光と混ざり合っている。
 コンソールの中央に座っていたチサは隣の席で送信ボタンが押されるのを確認したあと、首を左右に曲げてからゆっくり肩を回した。そのまま確認用のサブモニターをじっと見る。
 やがて送出サーバーからデータの受信完了を知らせる信号が戻ってきた。サブモニターの画面に数字が流れ始める。5、4、3、2、1。
 無事に送出が始まった。緑色に光るランプに編集室の全員がホッと息を吐く。
「オーケー、終わり」
 そう言ってチサは操作パネルの上に乗っていた書類を足元のシュレッダーにまとめて投げ込んだ。年表や人物相関図、それに素材映像の一覧。おそらくもう二度と使うことはないだろう。
「はい。おつかれさまでした」
 アシスタントエンジニアのデンが、コンソールのスイッチやボリュームを一つ一つ基準値に戻し始めた。さらに作業用ディスクに溜まっていた大量の映像データも一気にまとめて削除する。こうしておかなければ次の仕事に取りかかれないのだ。
 後ろの席ではリサーチャーのモロコがテーブルに突っ伏すようにして眠っていた。連絡を受けてから仕上げて納品するまで、一瞬も休めなかったのだからしかたがない。

「さすがに今日はこれで終わりだよね」
 チサは首を回してマネージャーのリオに確認した。このチームだけで十本近く送出したのだ。疲れがピークに達している。
「あ、ちょっと待ってください」
 リオが片方の手のひらをチサに向けた。反対側の手に持ったスマートフォンを耳に当てている。
「え? 今からですか? はい、ええ」
 何やら不穏な気配にチサとデンは顔を見合わせた。まさか今から追加の仕事が入ってくるのだろうか。
 電話を切ったリオがチサに何か話そうとしたところで、不意に防音処理の施されたぶ厚い自動ドアが滑るようにすうっと開き、プロデューサーのダリンが顔を覗かせた。妙に赤い顔色をしている。
「チサ?」
「はいボス」
「聞いたな?」
 チサはちらりとリオに目を遣った。リオは難しい顔をして小さく何度か頷いている。
「たった今、送出が終わったばかりなので詳しいことはまだ聞いていませんけど」
「そうか。悪いんだけどさ。急ぎであと一人頼むわ」
 ダリンは茶色いファイルに綴じられた書類の束をデンに渡した。なぜか焼きたてのピザの香りがした。
「まだ若いからそれほど素材映像はないだろうし、パッとつないでよ」
「ボス、これって割り増し残業ですよね?」
 いつのまに起きたのかきちんと座り直したモロコがコーヒーを片手に尋ねた。
「あ?」
 ダリンの顔が険しくなった。
「だってうちら、もともと朝シフトなんですよ」
「そう言わずにあと一本くらいついでにやってくれよ」
 ダリンは冗談めかしてモロコを軽く睨む。
「もう無理ですよ。目もショボショボしてるし」
 チサも首を横に振った。
「わかったわかった。割り増しつけていいからさあ。パッと頼むよ」
 面倒くさそうな声を出しながらダリンは大げさに肩をすくめた。右肩に掛けていたカーディガンがぱらりと床に落ちる。ピンクと緑色の毛糸で編まれたニットのカーディガンは、羽織っていても肩に掛けていても、巨大な芋虫のようだった。
「じゃあこれ」
 デンがファイルをチサに渡した。ダウンライトの下に移動してチサは表紙を開いた。
「二十二歳ね」
「そう。だから学生時代の素材がほとんどだろ」
 ダリンが横からファイルを覗き込む。
「いえ、家族の素材だってありますよ」
「まあ、そうだな。とにかくその辺を使って適当にやってくれ」
 そう言って腕時計を見た。
「もう時間があまりないからさ」
「いつまでですか?」
「たぶんあと五分あるかないかだろう」
 それじゃあ頼んだぞと言い残してダリンは編集室から出て行った。

 ふうと大きな溜息をついて、チサはメインモニターに映像を映し出した。
「この素材は?」
 顔をデンに向けた。
「ええっと、近所の友だちみたいですね」
 キャプションを見ながら答えるデンを後ろからモロコが補足する。
「キャンプらしいです。三年生の夏ですね」
「三年生か。その前って何か大きな出来事はなかったの?」
 映像データを素早く検索しながらデンは首を傾げた。
「うーん、特に何もなさそうです」
「あ、でも学校へ上がる前に二回引っ越しをしてます」
 モロコが声を上げた。
「それは思い出の素材に無い?」
「無いみたいです」
 デンは困った顔になった。
「大丈夫。特に無いのならそれで構わないから。走馬灯って印象的な思い出だけで編集するほうがいいから」
「ええ」
「チーフ、この人、もうすぐ暗転が始まりそうです」
 リオが手元のモニタと時計を交互に確認しながら慌てた口調で言う。
「このままだと時間切れになります」
「わかってる」
 チサは大きく頷いた。暗転したら、まだ本人の意識が残っている間に走馬灯を流さなければならない。もしも編集が間に合わなければ、走馬灯を見ないまま最期を迎えることになってしまうのだ。
「じゃあ、さっさとつくっちゃうよ」
「はい」
「はい」
 声を揃えたモロコとデンは、すぐにキーボードを忙しなく叩き始めた。
 暗転までの残り時間は四分ほどだろう。この編集室での一時間がちょうど人間の一分にあたるから、チサたちが編集に使えるのは四時間足らずだ。

 チサは素材を素早く早送りしながら手元のシートにメモを取っていく。家族旅行、学校行事、一人暮らしの部屋、飲み会、趣味のボードゲーム、友人との喧嘩、スポーツ観戦、花火大会、風邪で寝込んだ日、書道の表彰。
「なんか気の利いたカットはない?」
「飼ってた犬ってのはどうですか?」
 素材を整理しているデンが画面を見つめたまま答える。
「ああ、それいいね。あと初恋の人ってある? あったら使いたいんだけど」
 遠くから走ってくる犬の映像から、しだいにクロスディゾルブで初恋の人のアップに変わる。定番の映像だが走馬灯のオープニングには使いやすい。
「います。かなり年上の人に恋していたみたいです」
 端末を叩いてモロコがサブモニタに情報を送り込んできた。
「初恋の人、出しますッ」
 すかさず登録番号からデンが映像素材を探し当て、メインモニタに映し出した。
「え?」
「これって?」
 画面に映った映像を見て全員が目を丸くした。
「わたし、だよね?」
「はい、たぶん」
 喫茶店の窓ガラス越しに、店内で友だちと楽しそうに話し込んでいるチサの姿が映っている。ときおりキラキラと美しい光が差し込むのは、おそらく記憶の中に本人の脚色が入っているからだろう。
「お知り合いですか?」
 モロコに聞かれたチサは再び書類に目を落とした。名前や顔だけでなく、細かな年表までじっくり見直すが、やはりまるで記憶にない。そもそもチサとの接点がないのだ。
「たぶん違うと思う。こんな喫茶店、知らないし」

 まったく心当たりはないものの、初恋の人として検出された映像素材にはすべてチサが映っていた。さっきの喫茶店だけでなく、その映像に出てくる場所のどれもがチサには見覚えのない場所で、さらにチサはまるで知らない人たちといっしょに過ごしている。
「どういうこと? だってわたし、ラクロスなんてやったことないし」
 メインモニターにはラクロスの試合を終えてタオルで汗を拭くチサの姿が映っていた。夏の陽射しがグラウンドに白く照りつけている。
「きっとどこかでチーフを見かけたんだ」
 デンが興奮してやたらと早口になった。
「で、あとはひたすら妄想してたんだよ」
「ええっ? じゃあこの記憶、ぜんぶ想像ってことですか?」
 リオが目を丸くした。
「すごい片思いですね」
 モロコも感心したように言う。
「ちょっと待ってよ。そういうの、わたし困るんだけど」
 チサの眉間にキュッと皺が寄った。どれほど好きになられても知らなければどうしようもない。
「どうします?」
 デンが中央の椅子に座るチサにすっと顔を向けた。
「チーフの映像は使うのやめますか?」
「うーん」
 チサはゆっくりと腕を組んでから天井を見上げた。ダウンライトの光が目に飛び込んでくる。眩しさ堪えるようにチサはすっと目を細めた。走馬灯は思い出の再生だ。それが実際に起きたことかどうかには関係なく、本人がそう記憶しているのならそのまま見せてやるべきじゃないだろうか。それに――
「これまで流してきた走馬灯の素材も、もしかしたら想像が混ざっていたかも」
 今回はたまたま自分が映っていたから気づいたものの、実際の所はわからないのだ。
「よし、使おう」
 チサはきっぱりと言った。わたしの映像が思い出になるのなら躊躇うことはない。きっと本人にとっては何よりも大切な思い出なのだ。
「最期だからね。一番いい思い出を流してあげなきゃ」
 他のメンバーも同意する。
「じゃあ、最初はこの喫茶店の映像でいいですね」
 デンが素材パネルから編集パネルへ映像をすばやく移動させた。
「で、次の映像はどうします」
 畳みかけるように聞く。もうあまり時間が残されていないのだ。一刻も早くそれなりの走馬灯を仕上げてサーバーに送り込まなければ、最期の瞬間に何も流れずに終わってしまう。
「あ、ちょっと待って」
 チサは手元のジョグダイヤルをクルクルと回して喫茶店の映像を早送りすると、自分の顔がアップになったところで止めた。
「あの、これね、もうちょっとだけ目を大きく加工できない?」
「え?」
 デンが不思議そうな顔でチサを見た。
「できるでしょ?」
「ええ、それはできますけど」
「あと、顔は小さくしてね」
「はあ」
 チサに言われるがままデンはいくつかのスイッチを押し、ボリュームをひねった。一回り小さくなった顔に極端に大きな目が乗って、アニメのキャラクターを無理やり実写にしたような奇妙な生き物が現れた。
「ぶふっ」
 後ろの席からリオの噴き出す声が聞こえた。なにしろ顔の三分の一ほどが目になっているのだ。
「ちょっともう、それじゃ変でしょ! ちゃんとしてよ! 一番いい思い出なんだから!」
 チサはデンをきつく睨み付けると、さらにジョグダイヤルを回し、いくつかの映像素材を選び出した。そのすべてにチサの姿がアップで映っている。
「それから、こっちのカットは顎をシャープにして、あと目尻もきれいにしてね」
「あのう、チーフ?」
「そんな加工してたらキリがないですよ」
 モロコとデンが戸惑うような声を出す。
「とにかく加工してッ! そのままじゃダメだからッ!」
 いきなり自動ドアが開き、ダリンが飛び込んできた。
「いったいどうなってるんだ? 何やってんだ!」
 部屋に入るなり大声を上げた。芋虫のカーディガンが床に落ちる。
「急げ。もう時間が無いんだぞ」
「あと、こっちのカットはおでこがテカってるから色を変えて。それと歯茎が出てるのは消してね」
 チサは夢中で指示を出し続けている。ダリンの大声も今のチサにはまるで聞こえていないようだった。

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