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足りないもの

illustrated by スミタ2022 @good_god_gold 

 いったい何が悪いのかはわからないが、どうも個人タクシーとは相性が悪いらしくて、乗るたびにあまり気分の良くない思いをするため、古庄敏夫はできるかぎり個人タクシーには乗らないようにしている。
 新幹線を降りて駅前のターミナルでタクシーを待つ行列に加わったときも、ちゃんと頭の中で車列と乗客の順番を数え、個人タクシーが古庄には当たらないよう計算していた。
 まもなく古庄の順番になる。古庄は乗り場で客を待っている車列を見やった。大手タクシー会社の車両が二台続いたあと、大型車の個人タクシーが控えている。やたらとステッカーが貼ってあるところから見ても、かなり個性的な運転手が乗っていることがわかる。
「ふう。危ないところだったな」
 古庄は内心で胸をなで下ろした。今古庄の前に並んでいるのはひと組のカップルだけだから、このままならなんとかあの個人タクシーには乗らずに済む。
 ところがいよいよカップルがタクシーに乗る段になって急に二人は互いに距離をとり始め、やがて女性だけがタクシーに乗り込んだのだった。
「それじゃまたね」と後部座席の女性に向かって男性は手を振り、車が走り出すのと同時に、すぐ後ろのタクシーに近づいた。
「ああ、何てことだ。そのタクシーには俺が乗るはずだったのに」
 男性が乗ろうとしている車のすぐ後ろに待機しているのはもちろん個人タクシーだ。
 すっと古庄の前に滑り込みスライドドアがゆっくりと開いた。東京オリンピックを機に導入された背の高いタイプの車両で、それだけがまだ救いだった。
 車に乗り込んで行き先を告げると、タクシーはほとんど振動することもなく滑り始める。
 深々と腰を下ろし直してから古庄は室内を見回した。
「ひゃあ、ずいぶん豪華ですね」
 思わず声が出た。
 助手席の背には新幹線や飛行機と同じようなテーブルトレーがはめ込まれ、その左右には電源コンセントが用意されていた。天井からぶら下がったテレビでは昼のニュースが流れているし、ゆったりとした後部座席の足元には小さな冷蔵庫まで備え付けられている。何気なく開けてみるとシャンパンの小さなボトルが数本、佇まいを正していた。
「せっかく乗っていただくわけですから、これくらいのサービスはしないとねぇ」
 初老の運転手がニヤニヤ笑いをしたまま得意げに言う。たしかに個人タクシーならではの贅沢さで、さすがにこれは一般のタクシー会社では不可能な内装だろう。
 信号待ちで止まったところで、運転手が何やらボタンを押すと、テーブルトレーが自動的に開き、いったいどこから現れたのか、古庄の目の前にミックスナッツの入った小皿が置かれた。
「うわあ、すごいなあ。この車だけで生活できそうですね」
「まあね」
 運転手はますます得意そうな顔つきになって、車両の設備を次々に紹介し始めた。基本的な家電は全て揃っているし、各種通信機器も備えられている。食料や水だけでなく、本や雑誌も積まれているから、古庄の感じたとおりこの車だけで生活することは十分可能だった。
「ここまで手を入れたタクシーは、たぶんうちだけですね」
「私もそう思います」
 運転手に向かって古庄が大きな相槌をうった。これほど何でも揃っていれば、もはやワンルームマンションの一部屋がまるごと移動しているようなものだ。

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