亀の背中
昼間はまだ人の気配があった浜も、影が長く伸びる刻になれば、誰の姿も見えなくなる。
男は浜辺に腰を下ろし、繰り返す波折りをぼんやりと見つめていた。黒々とした水の上で、夕陽に薄赤く染まった泡が何度も弾けては消えていく。
静かだった。波音のほかに耳へ届くのは海風が松枝を切る音だけである。赤い陽は遠く水平線に押しつけられて歪んでいた。海面に映る陽はゆらゆらと揺れ続けている。
男は裕福とは言い難い身なりだった。木綿の着物は裾が傷み、腰魚籠の竹もところどころ切れて端を見せている。
ふと視線の先に大きな岩が浮かんでいるような気がして男は思わず腰を浮かせた。波に乗って岩がゆっくりと浜へ近づき、やがて砂上に達するとそのまま移動し始めた。
はたして岩は亀であった。亀はパタパタと足を動かし男の正面へやって来ると、甲羅から首を伸ばし頭を上げた。見覚えのある亀だと男は思った。
「先日、助けていただきました者です」
「ああ、いつぞやの」
男は納得した。数日前、浜の悪童たちに囲まれていた亀を助けたのだ。
「それであの亀がいったい何の用あってここへ来たのだ?」
表面では無関心を装いつつ男は期待していた。それもかなり期待していた。亀を助ければ当然、恩返しがあることはよく知っている。ついに機会が訪れたのだ。
「あなたをすてきな場所へお連れしたいと思いまして」
やはりそうだ。男の心臓がドクンと音を立てて跳ね上がった。
「わたしの背中に乗っていただければお連れいたしますが、いかがでしょう?」
「いやいや。それには及ばん。私は見返りを求めてお前を助けたわけではないのだから」
男はゆっくりと首を振った。すぐに飛びつくのは沽券に関わる。ここは粘らなければ。
「そうですか。ではわたしはこれで」
亀は大きく頷くと身体の向きをぐるり変えようとした。
「ちょっと、待ちなさい」
回転する亀を男はしっかりと押さえ込み、動きを封じ込める。
「やめてください。何をするんですか」
亀はジタバタと足を動かすが、男の力はそれ以上に強く動くことができなかった。
「いいかね。何ごともそうやってすぐに結論を出してはいけない。もう一度くらい尋ねるべきだろう」
男が諭すように言うと亀は「はあ」と、不思議そうな顔で首を傾げたが、それでも男に再び尋ねた。
「わたしの背中に乗せて、すてきな場所へお連れいたしましょうか?」
「そこまで言うのなら乗ってやろう」
かくして男は亀の背に乗った。しかもその場ですぐに乗った。波打ち際まで一緒に歩いてから乗ればいいのに浜の奥で乗ったものだから、亀の身体が波に触れるまでにはずいぶんと時間が掛かった。いつしか上った丸い月が白く冷たい光で浜辺を明るく照らしていた。
「では参ります」
亀は男を背に乗せたまま静かに沖へ泳ぎ出すとだんだん沈み始めた。そうやってしばらく海中を進む。やがて月明かりも届かなくなり、あたりは真っ暗になった。
「何も見えぬな」
男がぽつりと独り言ちたのが聞こえたかのように、亀の両目から光がまっすぐ放たれ、前方に丸い光輪をつくった。光の輪の中を魚たちが通りすぎるたびに銀色の腹がぎらりと輝くのが見える。
すっと亀が泳ぐのを止めた。男の周囲からは細かな泡がどんどん立ち上っているようだが、光に照らされた瞬間だけ泡は白く見え、すぐに暗闇の中に溶けていった。
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