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イタチと検閲

 ラフリエでの共同生活は、当初の話とはずいぶん違っていて、デンは数名の若い男女がマットレスの上で雑魚寝する、狭くるしく湿っぽいステュディオへいきなり放り込まれた。
 この薄暗い半地下の部屋が局の借り上げた仕事部屋だと言われたものの、自分と同い年くらいのこの若者たちが検閲局に雇われているようには思えず、むしろ検閲される側にいるように見えた。みんなナイトクラブで踊るときのような細身の洒落た服を着ていて、何にも直接触れないよう薄い手袋を填めていた。
 デンは部屋の隅に青い革製のボストンバッグを投げ置くようにして、そのまま冷たい床に座り込んだが、誰も野暮ったいセーターを着たデンに興味を持とうとはしなかった。天井から落ちる薄明かりのつくる輪の中で、男の子も女の子も隣で寝ている異性たちに夢中で、ときには同性にも夢中になっていた。
 初日の夜は湿気と男女の声でいつまでも寝苦しかったが、それでも明け方にはいつしか眠りに落ちて、置いてきた犬のことを夢に見た。夢の中で犬はどんどん大きくなってステュディオにのしかかり、建物ごと倒した。犬を撫でながら目を覚ますと、昨日の若者たちは誰一人いなくなっていた。ぽつんとした部屋には薄いマットレスが一枚と青いボストンバッグ、そして汗だくになったデンだけが残されていた。
 昼前になってようやく検閲局へ出向くと、厳めしいヒゲを伸ばした受付の男性はデンにむかって黙ったまま両手で七と示した。どうやら七階へ行けということのようだった。
 七階のキーコードは肘の内側に書き込んである。デンが壁の入力ボックスに番号を打ち込むと目の前に七階が現れた。デンはまだ固まらずにゆらゆらとしている七階に向かってそっと足を踏み出した。今いる一階から七階へ移る瞬間だけは、さすがに強く押し戻されるような抵抗があったものの、移ってしまえばもう何も感じなかった。
 七階の隅では何の表情も見せないままマスターが立っていた。
「このあとの指示を待て」
 マスターの視線は、目の前にいるデンを通り越して遙か遠くにある何かを見つめているようだった。
「新しい仕事はあの部屋でやるのか?」
「そうだ」 
 だったらわざわざ局まで来なければよかった。デンは鼻白んだがそれが役所勤めというものだ。ロデュール駅でリスベイン線に乗りサーキットデフィ駅で降りた。リスベイン線は地下鉄なのにほとんどの区間で地上を走っているから心地がよかった。窓から見るラフリエは至るところに工場の白い煙が立ちこめていて、青い空がうっすらと灰色の膜で覆われているようだった。
 駅前で一人の老婆がデンを睨みつけてきた。
「検閲局だろ?」
 デンは何も答えない。
「あんたたちは検閲すればそれでいいと思っているんだろ?」
 老婆は手にしていた杖でデンを打とうとしたが、周りにいた老人たちにすかさず取り押さえられた。取り押さえた老人たちも苦々しい顔でデンを睨みつけていた。
 なんとかステュディオへ戻ると部屋にはいつのまにか小さな机と椅子が置かれ、その周りの床には大量の書物が積み上げられていた。机には白い封筒がある。
 書物の一ページごとに最低一つの誤植を見つけるように。
 封筒を開くとマスターからの指示が赤いインクで書かれた手紙が出てきた。
 デンは床から何冊かの本を取り上げて机に置き、椅子に腰を下ろした。最初の一冊をパラパラと開いたところで首を傾げ、次の一冊を開いた。さらにもう一冊。
 与えられた書物のほとんどは主にガリオ語のものだった。デンがガリオ語の書物を見たのはこれが初めてだったし、デン以外にも見たことのある者はほとんどいないはずだった。
 困惑したデンはマスターに電話を架けることにした。ステュディオの裏庭にあるコンクリート製の電話部屋に入ると中央に古い金属製のデスクがあって、その上に黄色い電話機が置かれていた。電話機にはダイヤルもボタンもなく「重要な件」と書かれたラベルが貼られているだけだった。
 しばらく躊躇ったあとデンが受話器を持ち上げると赤い丸ランプが点って、すぐに回線がどこかへつながった。
「重要な件か?」
 マスターの声だった。
「ガリオ語は文字を持たない言語だ」
 音声しか持たないガリオ語では、白い紙を見ながらその瞬間〳で言葉を紡ぐのが読書だ。何も印刷されていない白い紙をいくら眺めても誤植など見つけられるはずもなかった。
「知っている」
「それなのに誤植を探すのか?」
「一ページごとに最低一つの誤植を見つけるように」
 マスターは最初の指示を変えなかった。
「もしも見つからなかったら?」
「見つけるのが検閲局の仕事だ」
 デンは言い方を変えて何度か質問をしたが、受話器からは淡々とした口調で同じ言葉が繰り返されるだけだった。
 昼下がりの淡い光が木々の間から降り注ぐ中、デンは裏庭から半地下の部屋に戻り、真っ白な本のページをめくり始めた。
 紙を見ながら頭の中へ自然に浮かんだ言葉を脈略なく紡いでいく。
 ふいに言葉が途切れた。
 デンはその瞬間に視線を置いていた場所に「検閲」の赤いスタンプを押した。
 次のページでは、隅から隅まで何度も視線を走らせているうちに一瞬ピントがぼけた箇所へスタンプを押す。
 こうすればいいのだとデンはようやく理解した。実際に誤植があるのかどうかはわからないが、デンが検閲のスタンプを押しさえすればそこが誤植になるのだ。なぜ検閲局が多くの人たちから嫌われているのかがこれでわかった。誤植を見つけるとはそういうことなのだ。
 まるまる二冊ぶんの誤植を見つけたところで、腕時計のアラームが小さな音を立てた。十六時だった。今日の勤務はこれで終わりだった。デンは立ち上がって大きく伸びたあと、部屋の外に出た。
 廊下の奥にある共同トイレの前まで進んだところで中から一人の男性が出てきた。昨日、部屋で見かけた若者の一人だった。
「ルイ」
「ルイ」
 デンが片手を額に当てて声を掛けると若者も同じように片手を額に当てて返事をした。
「仕事は?」
 彼が聞いた。
「やっと慣れてきた」
「じゃあどうして僕たちが遊び暮らしているのかもわかったね」
 そう言って彼は廊下の奥で待っている女の子に手を振った。
「ああ。なんとなくは」
 デンはトイレの扉へ目を遣った。男の後ろから茶色い生き物が細長い顔を覗かせていた。
「それは?」
「ツノイタチだよ。このトイレに住んでいる」
 扉の隙間から顔は覗かせるものの、ツノイタチはそれ以上は出て来ようとしなかった。デンは男性と入れ替わるようにトイレへ入った。イタチは小さな星が鏤められたデザインのパンツを穿いていた。額に小さなツノが生え始めたばかりの仔イタチはやたらとデンを警戒しているようで、喉の奥でグルグルと唸り声を上げている。強張らせた体が小刻みに震えていた。
「心配ない」
 イタチに向かってそう言ったが、イタチはデンの言葉が理解できず、デンもまたイタチの言葉が理解できなかった。デンはツノイタチの頭に触れようとしたが、イタチはギリギリのところで距離をとり、決して触れさせようとはしなかった。
 建物から外に出るとまだ明るかった。今月は日没を二十二時にすると天気局が発表していたのをデンは思い出した。昔の天気局は日没の時刻を毎日少しずつずらしていたが、ここ数年は一ヶ月単位でまとめて決めている。それが良いことなのか悪いことなのか、デンにはわからなかった。
 部屋に戻ると若者たちがパーティーを始めていた。クラッカーを鳴らし、ディロスの大瓶を回し飲みしている。すでに酔っ払って床の上に寝転がっている者もいた。
 部屋の中を例のツノイタチがゆっくりと移動しているのがデンの目に入った。
「なんてことだ」
 座りこんで肩を抱き合っている男女の足の間をツノイタチがすり抜けようとしたところをデンは見逃さなかった。後ろから首を軽く摘むとイタチはおとなしく四本の脚を揃えて横になった。
「どうしてトイレから出たんだ」
 相変わらずツノイタチの仔は怯えて体を震わせていたが、デンは躊躇うことなく机の上から検閲のスタンプを取り上げイタチの肉球に押し当てた。検閲という文字が赤いインクでくっきりと浮かび上がる。
「その子をどうする気だ」
 若者の一人が目を丸くして叫んだ。
「これが決まりだ」
 デンがそう答えると、それまで談笑していた若者たちが一斉に口を閉じた。室内に妙な静けさが広がっていく。仔イタチの震えがデンの手に伝わってきた。
「怖がっているのか」
 若者が聞いた。
「そのようだな」
「だったら気分転換に外出させてみよう」
 彼はデンから強引にツノイタチを奪い取って抱き抱えると、そのまま部屋を出て行った。デンは困った顔で鼻を鳴らし、残っている若者たちをゆっくり見回したあと、ステュディオをあとにした。
 表通りに出ると映画の撮影をやっていた。どうやらパスタが主人公の映画らしく、気難しそうな顔をした監督は何度もパスタを茹で直していたが、パスタは監督の意向など気にもとめていないようだった。
「さあ、前へ歩いて」
 監督は怒鳴るがパスタはじっと動かない。
「どうして歩かないんだ」
 デンは怒鳴り散らす監督を見てふっと笑った。そもそもパスタは歩かないのだ。いくら怒鳴っても動くはずがなかった。監督に検閲スタンプを押そうと思ったが、どうやら部屋に置いてきたようだった。
 今出てきたばかりの建物に入り直したデンは薄暗く細い階段をそっと降りて、半地下のステュディオへ戻った。
「そういえばイタチはどうなった?」
 その場にいた女性に尋ねた。
「わからないわ」
 彼女は焦点の合わない虚な表情のまま壁を見つめていた。まるで壁の向こう側にイタチがいるような仕草だった。
 デンは大きく首を振った。ここでは誰も彼もがおかしい。いくら局の借り上げた寮とはいえ、こんなところでずっとは暮らせないことくらいはっきりしている。二日目にしてすでにホームシックだった。一刻も早くラフリエから出て故郷に戻りたかった。置いてきた犬。地面に伏せたあの大きな犬の尻尾が頭をよぎった。
「オレはここを出ていくことにした。もしもオレが自由に選べるのならお前たちじゃなく、あのイタチを選ぶ」
 デンがそう言うとみんながホッとした顔つきになった。みんなも同じ思いだったらしい。
「それじゃ」
「スタンプを忘れないでね」
 女性の一人が机の上のスタンプを指差した。
「あなたは結局、あのツノイタチを選んだのね」
「そうだ」
 デンと若者たちは、お互いに微妙な笑顔で別れの挨拶を始めた。
「どうしてあなたはイタチを選んだの?」
「しかたがないだろう。ツノイタチは生き物なのだから」

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