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送迎

illustrated by スミタ2022 @good_god_gold

 バタバタと大きな足音を立てて二階からダイニングへ妻の有音が下りてきた。朝早いので、まだパジャマ姿のままだ。
「迎えが来たみたい」
 妙に真剣な表情で顔を玄関へ向ける。
「そうか」
 井塚は手にしていたコーヒーカップをテーブルに置き、ネクタイに手をやった。
「それが、思っていたよりけっこう大きいの」
 有音は真剣な表情を崩さないまま、井塚の目を覗き込むように顔を近づける。
「たぶん、ご近所もびっくりしてるんじゃない?」
 ほう、と息が漏れるような返事をしてから井塚は立ち上がり、椅子の背にかけてあったスーツの上着を手に取った。ゆっくり袖に手を通し、ボタンを留めてからカバンを持つ。
 今日のために新調したスーツは、わざわざ誂えただけのことはあって、さすがに着心地がよかった。
「行ってくるよ」
「気をつけて」
 三和土で靴を履いていると、いつのまにか着替えた有音がやってきた。
「どうした?」
「出かけるところを見送ろうかなって」
「大げさだな」
 井塚は苦笑した。
「だって、最初なんだし」
 有音は口を尖らせながらサンダルに足を入れる。
「それじゃ、行くぞ」
 玄関の戸を開けた井塚はその場で足をピタリと止め、ゆっくりと振り返った。
「たしかに思っていたより大きいな」
 困惑した顔つきになっている。
「でしょ?」
「これは、さすがに大き過ぎるんじゃないか」
「ほら、だから言ったじゃない」
 有音が勝ち誇った声を出した。

 今日づけで役員に昇進した井塚には、俸給が大幅に上がるほかにも福利厚生面での特権がいくつか与えられることになっていた。毎日の送迎もその一つだ。
「ただし、今年から役員を自動車で送迎するのはやめようと思っているんだよ。なにせ環境問題のこともあるだろう?」
 どっしりと椅子に腰を下ろした社長は嬉しそうに言う。
「申しわけありませんでした」
 社長室の中央に立ったまま井塚は頭を下げた。
「いやいや、何も君が謝ることじゃない」
「すみません。送迎車なんて私にはもう、ええ。本当にすみません」
 ますます頭を深く下げる。
「井塚くんだけじゃなく、全員の送迎車をやめるつもりだ」
「誠に失礼いたしました」
 上半身を深く折り曲げながら、井塚はふと顔だけを上げた。
「え? 全員の?」
「そうだ。しのぶ産業では送迎の自動車をやめるぞ。今はもうそういう時代だ。経営者たる者、時代に乗り遅れちゃいかん」
 社長は戸惑っている井塚を見ながらニヤリと笑った。

「それにしてもジェットコースターで送迎だなんて」
 家の前に停まっているビークルを見ながら有音が呆れた声を出す。ビークルは艶のある銀色で塗られ、ボディの横に赤いラインが二本、流れるように描かれていた。長さは十メートルほどだから、ちょうど大型のハイヤー二台分になる。
「これってさ、隣の玄関まで塞いじゃってるよな」
「でしょう? 明日は停める場所をもうちょっと前にしてもらわなくちゃ」
「そうだな」
 井塚はビークルの側壁をまたいで座席に座った。黒い樹脂製のように見えた座席シートはどうやら天然ゴムを使っているようで、予想よりも柔らかい。これなら長時間乗っていても尻が痛くなることはなさそうだ。
 左右から伸びるシートベルトをしっかり締めてから、目の前の安全バーをガチャリと引き下ろす。さらに隣の席に置いたカバンの取っ手にもシートベルトを通してきつく締めた。これで大丈夫だろう。
 ジリリリリリリ。
 どこからかベルの音が鳴り響き、ビークルがガクンと揺れた。チェーンを引くカラカラという音とともに、ゆっくりと動き始める。
「行ってらっしゃい」
「うん」
 手を振る有音に、井塚はぎこちない笑顔を返した。
「あっ」
 ビークルの先端が持ち上がった。かなり急な傾斜で上昇を始める。
 昇進に浮かれていたが、よくよく考えてみれば、こういった乗り物系のアトラクションは苦手なのだ。ああ、送迎など辞退すればよかった。あの場で断ればよかった。だが、今さらそんなことを言ってももう遅い。
 気がつけばビークルはすでにかなりの高さに達していた。そっと首を伸ばして見下ろすと、向かいのマンションの屋上が小さなハンカチほどの大きさになっている。
「これはまずい。まずいぞ。とにかくまずい」
 全身から変な汗が噴き出してきた。
 ジェットコースターは本社ビルの二十七階にある役員フロアへ直接つながることになっていた。最終的にあそこへビークルを届けるためには、スタートの時点でかなり高いところまで引き上げておく必要があるのだろう。
 それまでずっと上向きだった傾斜がしだいに地面と平行になって、やがてビークルの動きが止まった。
 カコン。何かが外れる音がした。と、ビークルが真下を向く。実際には真下ではないのだろうが、もはや井塚には真下とか思えない。
 一瞬、世界から重力が消え、そして一気に滑り出した。
「うわあああああああああああ。申しわけありませえええええええん」
 絶叫するよりほかない。
 ビークルは左右を捻りながら街の中へ滑り降りたかと思うと、ビルの間を抜けて再び空高くまで上昇し、水平ループに入った。遠心力で全身が引っ張られる。
「すみません、すみません、すみません。本当にすみません」
 いくら泣き叫ぼうとも、会社に着くまで止まることはない。わかっているがそれでも謝ればなんとかなるような気がして、井塚は叫び続けている。
 ビークルは巨大なビルにむかって直進し、ギリギリのところでカーブした。そのまま錐揉み状態になって逆向きのカーブに突入する。
「要りません! まっすぐでいいんです。錐揉みは要りません!」
 目を瞑れば少しはましかも知れない。井塚はギュッとまぶたに力を入れた。
「恐れ入ります。もう心から恐れ入っております」
 まぶたを閉じていても光と影は感じるから、ビークルが何か暗い場所へ入り込んだことはすぐにわかった。急に気温も下がって空気が冷たくなる。
「いったいどこを走っているんだよ」
 井塚は不安に耐えきれず、つい目を開けた。
 とたんに眩しい光が目に飛び込んでくる。さっきまでどこを走っていたのかはわからないが、少なくとも今は街のはるか上空から街に向かって落ちているところだった。そう、下りているのではない。落ちているのだ。
「ひゃああああああああああ」
 右に大きく回転しながら川の上を滑り、橋の下をくぐって今度は左に回転する。そして、そのまま長い長い宙返りが始まった。
 井塚は、もう自分がどこを向いているのか、何を見ているのかもわからなかった。ただ目の前を何かが縦に流れ続けているだけだ。
「もうしわけええええ、ありませええええん」
 宙返りが終わったと思ったのも束の間、すぐに二度目の宙返りが始まった。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
 口の周りについた白い泡も、目尻に溜まった涙も、強い遠心力でどこかへ飛んでいく。
「うおおおおおおおおおおおおおおお」
 今度は逆さになったまま、急カーブへ突入した。髪が逆立ち、全身に無駄な力が入る。
頭の上には街の中心部が見えている。さらにその中心にあるビル群に向かって、ビークルは速度を落とすことなく向かって行く。
「ダメです、それはいけません。ごめんなさい、許してください」
 大きく弧を描きながらビルにぶつかる直前、今度は縦にループを始めた。さらにもう一度ループ。そしてもう一度ループ。井塚はもう何も考えられなかった。目に映っている景色すら認識できない。
 ガタン。ビークルの速度がいきなり落ちた。
「え?」
 ハッと我に返ると、ビークルは本社ビルの二十七階フロアへゆっくりと滑り込んでいるところだった。見慣れたオフィスの光景が目に入ってくる。
「おはようございます」
 ビークルが完全に停止したところで、一人の若者が近づいてきた。
「今日から担当します、秘書の渡師です」
「あ、はい。すみません」
 呆然としている井塚の様子を気にすることもなく、渡師は安全バーをガチャリと跳ね上げてから、井塚のシートベルトと同時に、カバンを固定していたそれも外した。
「恐縮です。本当にすみません」
 井塚は渡師に深々と頭を下げて礼を言い、ビークルから降りようとしたが足に力が入らず座席の上にへたり込んでしまった。
「まったくもう情けない限りです。申しわけありません」
「いえ、井塚さん。大丈夫ですよ」
 渡師は手を出して井塚を引き上げるようにビークルから降ろした。床に立った足がまだガクガクと震えている。
 せっかく昇進したのにこんな目に遭うとは。井塚はまだふらふらしている頭をゆっくりと左右に振った。俺はまだいいが、これまで車で送迎されていたほかの役員たちも今日からはこのジェットコースターで送迎されるのだ。 
 みなさんは大丈夫なのだろうか。いや、そもそもこんな状態で仕事になるのか。それにしても、いくら時代に乗り遅れないためだからとは言え、役員をジェットコースターに乗せるなんて。
「いや、待てよ」
井塚は顎に手を当てた。
「あ、そうかも。こうやってジェットコースター並みの世の中の変化に対応できるようになれということなのか。さすがだ、さすがは社長だ!」
 井塚は両手をパンッと打ち、一人で大きくうなずいた。

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