事務所
昼食代を払おうとしたところで、定食屋のおかみさんがとつぜんプッと吹き出した。この店には数日おきに来るので、おかみさんとも顔なじみだ。
「どうしたんです?」
渡師は怪訝な顔つきになった。
「だって渡師さん、さっきから鼻が」
「ああ、これ」
渡師は困ったように肩をすくめた。
「昨日からなんですよ」
そして、軽く首を左右に振ってから自分の鼻を指差した。
気がついたのはベッドに入って本を読んでいるときだった。
ピーピー、ピピー、ピーピーピー。
誰かが窓の外で口笛を吹いていた。調子っ外れな辿々しいメロディが繰り返されている。酔っ払いでもいるのだろうとあまり気にもしていなかったが、いつまで経っても口笛は止まない。しかたなくベランダへ出て、マンションの駐車場を見下ろしたが、そこには誰もいなかった。誰もいないのに、口笛の音だけは続いている。
ピーピーピー、ピーピーピー、ピーピーピピピーピーピピー。
「あれ?」
そこで渡師はようやく気づいた。音は自分の鼻から出ていた。あまりにも小さな音だったし、しかもなぜかエコーがかかっているので、まさか自分がそんな音を出しているとは思いもよらなかった。
渡師は鼻を摘まんで左右に揺すってみたが音は止まらない。それにしても、と首を傾げる。単に鼻が鳴っているのではない。メロディを奏でているのだ。
渡師は洗面所へ行って思い切り鼻をかんだあと、しばらく様子を伺った。いくぶん鼻の通りが良くなったように感じたし、口笛のような音も聞こえなくなった。
安心してベッドへ戻り、再び本を読み始めたところで、また鼻から奇妙なメロディが流れ始めた。
「何なんだよ」
サイドテーブルに本を置き、半身を起こした。あいかわらず鼻は音を立てている。渡師は自分の鼻から聞こえてくる音に神経を集中した。あまりにも辿々しくてわからなかったが、たぶんこのメロディは「エーデルワイス」だ。
鼻から出る音がメロディを奏でるのも奇妙だが、それよりもっと奇妙なのは、その音が渡師の呼吸とは関係なく流れていることだった。
眉根を寄せた渡師は、口を半開きにして口だけで呼吸を始めた。
ピーピーピー、ピーピーピー、ピーピーピピピーピーピピー。
鼻にはまったく空気が流れていないのに、口笛の音はやまなかった。
「どういうことなんだ?」
再び洗面台に立ち、鏡に顔を近づけて鼻の中をじっくりと覗き込むが、気になるようなことは何もなかった。その間も口笛はずっと下手なエーデルワイスを繰り返している。
渡師はちり紙を小さく丸めて両方の鼻の中へぐいと差し込んだ。
音が消えた。
「ふう」
とりあえずはこれでいい。
渡師はベッドに戻り、サイドテーブルに置かれたスタンドライトの明かりを消した。
寝ている間ずっと口で呼吸をしていたせいか、目が覚めたときには喉がカラカラに乾いていた。起き出した渡師は台所へ向かいながら、ちり紙を鼻から抜き取った。
ピ、ピピ、ピ、ピピピピピー、ピ、ピピ、ピ、ピピピピピー。
すぐに鼻があの口笛の音で辿々しいメロディを奏で始めたが、昨日とは何かが違う。
「もしかして曲が違う?」
あきらかに違っていた。これはたぶん「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」の冒頭だ。
鼻をかむと音は止まるが、しばらくするとまた辿々しいメロディを奏で始める。さすがにこの状態では出かけられない。職場ではまだ何とかなるかも知れないが、通勤中にこの下手なメロディを周りの人たちに聴かれたくなかった。渡師は首を傾げたあと何かを諦めたようにちり紙を小さく丸めてまた鼻へ入れた。
ずっとちり紙の玉が鼻の中に入っているのは、さすがにあまり気持ちの良いものではないから、せめて食事時くらいはと紙玉を取り出したところを、おかみさんに聞かれたのだった。
「不思議な話ねぇ」
「困ってるんですよ」
おかみさんと会話をしている間も鼻からはメロディが流れ続けていた。
夜になって渡師は再び鏡の前に立った。
ピ、ピピ、ピ、ピピピピピー、ピ、ピピ、ピ、ピピピピピー。
あいかわらずメロディは流れ続けている。
渡師は小さなペンライトを手に持っていた。スイッチを入れるとLEDの光が束ねられて眩しいほど明るい光を放った。
そういえば、小学生のころに通っていた耳鼻科の先生は、額に凹面鏡をつけていたなと渡師は思い出した。あのころは何がついているのかわからなかったが、あれは光を一点に集めて鼻や耳の中を覗き込むためだったのかと、今さらながら納得した。
鏡に向かって顎を突き出すようにしながら、渡師は鼻での呼吸を止め、手に持ったペンライトで鼻の穴の中を照らした。
何かがサッと穴の中で素早く動いてすぐに見えなくなった。
さらに鏡に近づき、鼻を大きく膨らませる。
ピ、ピピ、ピ、ピピピピピー、ピ、ピピ、ピ、ピピピピピー。
そのまま鼻から息を大きく深く長く吐き続けた。奥のほうから出てきた洟水が一筋、頬に向かって垂れていった。
「ふううっ」
口だけで呼吸していると妙な苦しさがあった。明るくなった穴の中をじっくりと覗き込むが、さっき動いたものはどこにも見当たらなかった。
「ああ、もういいや」
渡師は洗面台にペンライトを置き、ちり紙の箱へすっと手を伸ばした。喉は渇くが、口笛が気になって眠れなくなるよりはましだ。
「ちょっと待ってくれ」
いきなり鼻の穴の中から声が聞こえてきた。渡師はギョッとして、ちり紙を取ろうとしている手を止めた。
「ちり紙を入れるのはやめていただけませんか」
穴の穴から小さな男性が顔を覗かせた。ポマードできっちり固めたオールバックの髪ときちんと整えられた髭は、上品なバーのマスターを思わせた。
「あれをやられると、中が狭くなっちゃうんですよ」
いつしか口笛の音は止まっている。
「あんた」
突然のできごとに渡師は言葉に詰まった。このわけのわからない状況で、いったい何をどう言えばいいのだ。何を聞けばいいのだ。狼狽えて目が左右に泳ぐ。
とにかく男に何かを言わなければ。
「なんでアイネ・クライネ・ナハトムジークなんだ?」
そう質問をしてから、渡師はすぐにこれじゃないと思った。この質問じゃないと思った。もっと聞くべきことがほかにもあるはずだった。
「いい曲ですよね」
男は嬉しそうな顔になった。それまでどこか陰を帯びていた表情がパッと明るくなる。
「たしかにいい曲だけどさ、頭の所ばっかり繰り返されるとおかしくなりそうだよ」
「ああ、すみません」
男は頭を掻いた。
「じゃあ、最後まで吹きますよ」
そう言って男は鼻の奥へ引っ込むと、リコーダーを手に持って現れた。
「口笛じゃなかったのか?」
「ええ。これです。まだ始めたばかりで上手くはありませんが」
男は恥ずかしそうに静かな笑みを浮かべた。
顎を突き出した格好のままずっと鏡の中の鼻を見続けているせいで、渡師はだんだん首が痛くなってきた。
「ちょっと待ってくれ」
洗面台の引き出しから小さな手鏡を取り出し、ソファへ移動する。クッションに頭を乗せて胸に鏡を置いた。これなら平気だ。
「お待たせ」
「それじゃ、始めます」
男はぺこりと一礼をしてゆっくりとリコーダーを口にくわえた。
ピィーッ。
素っ頓狂な高音が鳴り響き、渡師は思わず耳を塞いだ。
「すみません。緊張して変な音が出てしまいました」
慌てたように手をバタバタ振ってから、男は再びリコーダーをくわえ、そのまま軽く頭を下げた。
ピ、ピピ、ピ、ピピピピピー、ピ、ピピ、ピ、ピピピピピー。
アイネ・クライネ・ナハトムジークのリコーダー演奏が始まった。男は主旋律をなんとか再現しようと苦戦しているが。もともと弦楽四重奏なのだからリコーダー一本で演奏するには無理があった。
四分の四拍子でのソナタから二分の二拍子へ。第三楽章で四分の三拍子へ代わり、そして二分の二拍子のロンドへ。何度もつっかえては止まり、やり直し、再びつっかえるので、男が最後まで吹き切るまでには三十分もかかった。
モーツァルトの書いた美しい小さな夜の曲は、辿々しいメロディ運びと極端に外れる音程で演奏された結果、もはや原型を留めない別の曲として、渡師の鼻から流れ出たのだった。
吹き終わったあと男はびっしょりと汗を掻いていた。
「お粗末さまでした」
そう言って鼻の中からタオルを取り出し、頭と顔の汗を拭い取るようにゴシゴシと擦った。男が使い終わったタオルを丸めて奥へ投げ込むと、渡師は鼻がムズムズするのを感じた。
「で、あのさ」
ようやく渡師は男に何を聞くべきかを思いついた。
「なんでしょう?」
「あんた、なんでそこにいるの?」
「なんでとは?」
男は質問の意図がわからないとでも言いたげに首を傾げた。
「いや、そこってオレの鼻の穴だろ? 住んでるの?」
「いやいやいや、まさか。住んでませんよ。事務所ですから」
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