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欲望の都市

 四十七階にあるオフィスの窓から眺める街は、不揃いな箱を並べて積み上げたようだった。屹立するビルたちは、なんとかそれぞれの特徴を出そうと細かな意匠に工夫を凝らしてはいたものの、その差は僅かなものだったし、デザインよりもコストを重視するから結局はどれもこれもが似たようなガラス張りかモノトーンになって、街から空と色彩を奪っていた。
「おはよう」
 ダリンが会議室に入ると、すでに数人が長いテーブルについてコーヒーを飲んでいた。天然木が使われているテーブル板の中央には黒い表紙のファイルがいくつか積まれ、その隣には白いプラスチックで蓋をされた濃い茶色の大きな紙カップが段ボール製のドリンクホルダーに二つ、刺さったまま置かれていた。
「もらうよ」
 席に着いたダリンはホルダーからコーヒーカップを一つ抜き取り、飲み口のシールを剥がした。
「ブラックだけどいい?」
 手元の書類に目を落としていたモロコが銀縁の細い眼鏡越しにチラリとダリンに視線に向けた。高そうなスーツの胸元には幾何学模様のブローチが光っている。いかにもミュージアムショップで売っていそうな代物で、一流好みのモロコがそんなものを得意気につけていることが何とも奇妙に思えた。
「ブラックがいいんだよ」
 そう言ってダリンはウインクをした。下手なウインクだった。
 コーヒーは三十一丁目のスクウェアに毎朝やってくる移動カフェのものだった。南島から取り寄せた豆をキッチンカーの中で焙煎しているという触れ込みで売られているオリジナルブレンドは、殺風景なビルで働く人たちの間でもなかなかの人気だったが、カウンターの内側の客からは見えない場所には、大型スーパーで売られているコーヒーの紙製徳用パックがいくつも転がっていることをダリンは知っていた。
「それで?」
 ダリンもファイルを手に取って厚紙でできている黒い表紙を捲った。
「例の、シノブカンパニーの買収案件だよ」
 デンがファイルをポンと投げ出し、ウンザリした口調でそう言ってから首をぐるりと大きく回した。顎の肉がぷるんと震える。財務分析が担当だとは思えないほど雑な男で、テーブルに置かれたコーヒーの周りにはすでに茶色い液体が数滴こぼれていた。よく見るとネクタイにもコーヒー色の染みがついている。
「これってもう終わったんじゃなかったっけ?」 
 書類から顔を上げたリョーコが不思議そうな顔つきになった。短く切った赤毛とそばかすのせいで、ときおり子供のように見えることがある。
「あとは双方が契約書にサインをすれば終わりだよ」
 デンがゆっくりとリョーコの方へ首を傾けた。
「でも?」
「相手側のトップがサインを躊躇っているらしい」
「だってリーガルはオーケーを出したんでしょ?」
 モロコがバタと大きな音を立ててファイルを閉じた。
「もちろんだよ」
「だったらどうして?」
「そうは言っても結局は」デンが眉をしかめる。
「トップ次第だからな」
「サインをしたくない理由があるのか?」
 ダリンはファイルのページをどんどん捲っていく。チームで何ヶ月もかけて作成した書類だ。ほとんど頭に入っている。
「ストックオプションもボードでの地位も希望通りじゃないか。こんな好条件での取引はもうないぞ」
「俺もそう言ったんだけどさ。のらりくらりと逃げられているんだ」
「シノブカンパニーはどうなの?」
「そりゃ急かされているよ。中央銀行の金利政策が変わる前に取引を終えないと条件が変わっちまうからな」
「まさか相手はそれを待ってるのか?」
 ダリンの顔が曇った。さらに好条件を引き出そうとタイミングを計っている可能性はあるし、強欲な経営者ならそれくらいのことは平気でやりかねない。口では事業の継承だの顧客や従業員との関係性だのと綺麗事をあれこれ並べ立てるが、最終的には自分の利益しか頭にないのだ。
「所詮はカネか」
 ダリンは窓の外に目をやった。眩しいほど天気はよいのに、なぜか街は灰色にくすんで見える。世界一の都市で暮らしても人間の本質は変わらない。空気の中に溶け込んだ人間たちの欲望がうっすらと世界を覆い、遠くまで見通せるはずの視界をぼんやり遮っているようだった。
 カタン。
 ガラス戸を押し開けて入って来たのはパートナーのテンデだった。手には大きな革のダレスバッグを持っている。
 テンデは一流のビューローを辞めて立ち上げた事務所を一人でここまで大きくした男で、まだ若いが業界でも一目を置かれていた。単に仕事ができるだけでなく趣味も多く、音楽や文学の造詣も深かった。すらりとした体はしっかり鍛えらているし、身につけるものも嫌味のない高級品ばかりだった。もしもテンデのことを知らない者が、彼がオフィスで仕事をしている様子を見たら、俳優が映画の撮影をしているのだろうと勘違いしてもおかしくはない。
「おはようございます」
 デンが巨体を浮かせるようにして頭を下げた。
 テンデはすっと椅子を引いて軽やかに腰を下ろすと、テーブルのファイルに目をやってから全員を見回してにっこりと笑った。
「おはようさん。なんや、みんな揃っとったんかいな。それ、早よう言うてや」
「いや、これはチームの会議ですから」
 ダリンが肩をすくめる。
「そんな水くさいこと言わんといてや。あ、このコーヒー貰ろてええ? 水くさいコーヒーがあったら困るな。どひゃひゃひゃひゃ」
 テンデは優雅な仕草で紙コップを持ち、背筋を伸ばしたまま飲み口をすっと唇に当てた。
「これ、微妙やな。三十一丁目のとこのやろ?」
「はい」
 リョーコが頷く。
「なんでこれに人気あるんやろ。な? 不味かったら不味い言うたらええのに、みんな何を遠慮しとるんやろな。遠慮はせんでもえーんりょ。どひゃひゃひゃひゃ」
 誰も何も答えず、それぞれが気まずそうに肩をすくめた。
「実はシノブカンパニーのディールでちょっと手こずっています」
 ダリンはテーブルの中央から黒いファイルを一部取って立ち上がり、テンデの前に置き直した。聞かれてから答えるよりは先に報告したほうがいい。
「申しわけありません。すぐに解決します」
 ダリンがそう言うとメンバーも一斉に頭を下げた。
「いやいや、そんなんどうでもええねん」
 テンデは胸の前で両手をパッと開いて見せた。
「はい?」
 全員が困惑して互いに顔を見合わせる。
「あのな、じつは今朝な、うちの娘がまたクッキー焼いたんや」
「えっ?」
「まさか」
 自分の席に座りかけていたダリンの体が硬直してその場で動きが止まる。
 お互いに見合わせていた顔が一気に強張っていくのがわかった。 
「ほら、このあいだ持ってきたらみんな美味い美味い言うてくれたやん。あれで娘も気分良うなったみたいやねん。ほんでまた焼くわー言うてな。ほな焼きやー、焼いたらまた持って行ったるわー、言うてな」
 テンデはすっと腕を伸ばして紙コップをテーブルに戻した。一つ一つの動作が洗練されていて美しい。
「まさかあのクッキーを」
 モロコの目が異様なほど大きく見開かれた。
「つまりあのクッキーを」
 ダリンの声が掠れる。
「お嬢さんが、また焼いてくださったんですね。そうですか」
 そう言ってダリンは自分を納得させるように何度も頷いた。
「せや。ようさん持って来たったで。お前らラッキーやわ。クッキーだけにラッキーやな。どひゃひゃひゃひゃ」
「あのクッキー。あのクッキー。あのクッキー」
 モロコは放心したような口調でしばらくブツブツと繰り返していたが、やがてフラフラと立ち上がって室内を歩き始めた。
 グワシャン。
「何だッ?」
「なんや?」
 いきなり凄まじい音を立てて椅子をひっくり返したのはデンだった。背中から床に落ちたらしく、顔をしかめて唸り声を上げている。
「デン、大丈夫ですか?」
 慌ててリョーコがデンに駆け寄った。デンは大きな体を反らせるようにして痛みを堪えている。
「自分、どないしたんや?」
 テンデも素早く立ち上がり、寸分の隙もない動作でデンの側へ寄った。
「ボス、すみません。痛くてクッキーが食べられそうにありません」
「いや、今そんなん気にせんでええわ。とにかく病院行かなアカンやろ」
「付き添います!」
 リョーコがサッと手を上げた。
「いや、ここは俺が」
 ダリンの言葉をリョーコはきっぱりとした声で言い切った。
「大丈夫です。私が責任を持ってデンを病院へ連れて行きます!」
 まるで何かの覚悟を決めたような、強い意志を感じさせる表情だった。
「ん? モロコは?」
 ダリンは室内を見回した。さっきまでフラフラと歩き回っていたモロコがいない。どうやらデンの騒ぎに便乗して姿をくらましたようだった。うまく逃げやがったな。
「ボス、本当にすみません。こんなに痛くなければ、クッキーをいただけたのですが」
「かまへん、かまへん。体を優先したってや」
「本当に残念です。入院するかも知れませんし」
「ほんなら、クッキーは病院に届けさせるよって、心配せんでええ」
「うわあッ! 痛ッ! 痛いッ!」

 急にやたらと痛がり始めたデンを連れてリョーコが去ると、会議室の中にはテンデとダリンだけが残った。
 二人はしばらく黙ったまま窓の外を見つめていた。ダリンには灰色の街が、より一層灰色になったように感じられた。都市をぼんやりと覆う鬱蒼とした気配が部屋の中にまで入り込んできたようだった。
「ダリン、お前はクッキー食べるんやろ?」
 テンデは足元のダレスバッグを軽々と持ち上げてテーブルに載せ、真鍮の金具に指を添えた。すらりとした指先には丁寧に手入れされた爪が鈍く光っている。金具をパチリと外しバッグを開いた。
「ええ、もちろんです。もちろんいただきます」
 ダリンは窓の外を見たまま抑揚のない声で答える。
 バッグの中から青いストライプの入った半透明の紙袋を取り出してテーブルに置くと、テンデは静かにダリンの側へ押しやった。紙袋には赤いリボンが掛けられ金色の丸いシールが張られていた。グッドラック。シールにはそう印刷されている。
「ありがとうございます」
 テーブルに顔を戻したダリンは紙袋にそっと手を重ねた。
「いま食べるか? な? いま食べるか?」
「え? あ、はい」
 ダリンはできるだけゆっくりと指を動かしたが、紙袋のリボンが外れるのにそれほど時間は掛からなかった。袋の口がぽかりと開く。シナモンの香りがふっとダリンの鼻に届いた。
 袋の中に指を入れ、クッキーを摘まみ上げた。そっと顔の前に運んだあと、ダリンはクッキーをまじまじと見つめた。小さく首を左右に振る。いったいなぜ俺はこのクッキーを食べるのだろうか。
 鼻の奥がキュッと痛くなる。そう。俺だって口ではあれこれ言いながら、最終的には自分の利益しか頭にないのだ。このクッキーを食べれば、きっと俺の利益になると思うから食べるのだ。ダリンはもう一度窓の外へ目をやった。どこまでも似たようなビルたち。どこまでも似たような人々。俺も同じだ。飽くことのない欲望が人を動かしている。

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