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お好きな席へ

illustrated by スミタ2023 @good_god_gold

 Bランチは麻婆豆腐のセットに大きな油淋鶏が三つもついてくるから、ご飯を少なめにしてもらってなお、かなりのボリュームがある。渡師菱代はテーブルの上に並べられた皿を見て満足そうに頬を緩めた。
 菱代がときおり訪れるこの町外れのファミリーレストランは、味はそこそこながら安くて量が多いので、昼時になるといつも近隣の学生たちで大いに賑わっている。
 ところが今日は平日の昼だというのに、広々とした店内にはなぜか菱代と一組のカップルしかいない。店の隅で話し込んでいるカップルはドリンクバーだけで粘るつもりらしいから、ちゃんと食事をしているのは菱代だけだった。
 大きな窓からは晴れた冬の空が見えている。風が強いのか、青い空を背景に枯れ葉が数枚クルクルと宙を舞っていた。
 菱代は食べかけのスプーンを置き、隣のテーブルとの仕切りになっているパーテーションに軽くもたれながら、ぐるりと店内を見回した。四人いる店員は誰もが所在なさげにぼんやりと佇んでいる。厨房にも調理スタッフが数人いるだろうから、店員が客の倍以上いることになる。菱代は再び麻婆豆腐の器にスプーンを差し入れながら、目の端でメニュー表を眺めた。さすがにこうなると食後にコーヒーとデザートでも頼まなければ悪いような気がしてきたのだ。
 遠くでカタンと小さな音が響いた。続けてキュキュキュと自動ドアの開く音が聞こえて店員たちが一斉に姿勢を正した。どうやら客が来たらしい。
「いらっしゃいませ」
「いらっしゃいませ」
 店員たちの元気な声が輪唱のように店内に広がっていく。
「ああ、よかった」
 店員でもないのに菱代は妙に安堵した。ときどきしか来ないくせに、この店がなくなるのは困るのだ。困るのならもっと来ればいいのだが、そうはしないのが客の身勝手なところである。
 菱代は軽く首を回して入り口を見やったが、パーテーションに遮られて客の姿を見ることはできなかった。
「お一人様ですか?」
「ああ、ええ、一人です」
 声からすると年配の男性のようだ。
「お好きな席へどうぞ」
 ようやく菱代にも客の姿が見えた。ボルサリーノを冠った初老の男性が背を丸めながら通路を歩いてくる。糊の利いたワイシャツに青いサスペンダー。上着は折って手に掛けたままだった。
 男性はテーブルの間をゆっくりと歩き、やがて菱代が食事をしているテーブルの真横までやって来た。しばらくそこで立ち止まったあと、男性はいきなり菱代の隣の椅子の背に上着を掛けそのまま腰を下ろした。テーブルの向い側ではない。隣である。
「え?」
 虚を突かれた菱代は思わず男性の顔をまじまじと見た。こんなに広い店で、こんなにたくさん席があるのに、どうしてわざわざ私の隣に座るのか。カップルでさえ向かい合わせに座っているというのに、どういうつもりなのか。
「あの、お客様」
 店員も困惑したような顔で男性と菱代を交互に見比べる。
 違います。知り合いじゃありません。待ち合わせじゃありません。店員に目で訴えながら菱代は首を左右に振った。
「ああ、この席が好きだ。好きな席だ」
 男性は誰に言うともなくぽつりとそう呟くと、両方の手のひらでテーブルを優しくゆっくり撫で始めた。
 菱代としては今すぐにでもこの席を立ちたいのだが、男性の反対側はパーテーションになっているから逃げ場を塞がれた形になっている。
「大好きだよ。大好きな席だよ」
 男性はテーブルにうずくまるようにして頬ずりを始めた。
 いったいこの人は何なんだ。あまりにも気味が悪くて菱代は困惑した。隣にこんな人が座っていたら、喉がつかえて食事どころじゃない。
「すみません」
 菱代は意を決して男性に話しかけたが、男性にはまるで聞こえていないようだった。
「さあ、今日は君の上に何を並べてあげようか。お肉がいいかな。それともサラダがいいかな。たくさん並べてあげるからね」
 うっとりとした顔つきでテーブルに話しかけている。
「すみません」
 今度はかなり大きな声を出した。
「なんだ」
 男性は急に険しい顔つきになった。テーブルから身を起こして菱代を睨み付ける。店内の空気が張り詰めた。
「ここ、私の席なんですけど」
「何がだ。いいか。お好きな席へどうぞと言われたから好きな席へ座っただけだ。それの何が悪いんだ」
 店員に顔を向ける。
「そうだろう。君がお好きな席へどうぞと言ったんよな」
「ええ、ですが」
「ですが何だ。好きな席へ座っちゃダメと言うのか」
「あのう、こちらにはすでにほかのお客様がいらっしゃいますので、別の席をご案内いたします」
 しどろもどろになりながらも、店員はなんとか答えた。
「バカを言うな。おれはこの席が好きなんだ。ほかの席なんかに座れるか」
 男性はキッと首を回して再び菱代を睨む。
「あんたが別の席へ移ればいいだろう」
「どうしてですか」
 菱代の眉が跳ね上がった。あまりにも勝手な男性の言い分に驚いたのだ。
「そりゃ、この席が好きだからだよ。それとも何か? あんたもこの席が好きなのか? おれよりもこの席が好きなのか? え? どうなんだ?」
 菱代は呆れたように首を振ると、黙ったまま油淋鶏を箸で持ち上げ口に入れた。さっきはこの席を離れたいと思っていたが、こうなったらなんとしてでもここに座り続けてやろうと強く思った。
「ふん。好きでもないくせに偉そうに座りやがって」
 男性は荒い鼻息を吐くと菱代の目の前に腕を伸ばし、パーテーションに立てかけていたメニュー表を手に取った。
「さあ、今日はいつもよりもたくさん並べてあげようね。定食だけなんて安っぽいことはしないからね」
 得意げにそう言うと、チラリと横目で菱代を見た。
「おれは君が大好きだからね。何だって並べてあげるよ」
 片手でメニューを持ったまま、反対側の手でテーブルを優しく撫でる。
「ごめんなさい」
 いきなりテーブルの中央から声が聞こえた。
「私、おじさんのこと別に好きじゃないんだよね」
「え?」
 男性の顔が強張った。テーブルを撫でていた手がピタリと止まる。
「定食のお姉さんのほうが好き」
 菱代の眉間に皺が寄った。まちがいない。あきらかに声の主はテーブルだ。テーブルがしゃべっている。
「ど、どうしてだ」
 みるみるうちに男性の顔は真っ赤になり、手が激しく震え始めた。
「いつもたくさん並べてやってるだろうが! おれは君のために注文しているんだぞ!」
「でも、食べるのはおじさんじゃん」
「う」
 男性の声が詰まった。
「私のことが好きだとか、私のために注文しているとか言ってるけど、結局おじさんが食べたいだけでしょ」
「そんなことはない」
「それに、おじさんはいつも食べ散らかすじゃない。あんなに汚すのに今まで一度でも食後に私のことをきれいに拭いてくれたことある? 私がどんな気持ちだと思う?」
「あ、えっと、それは」
「ほら、私のことなんて何もわかってないじゃん」
「ぷっ」
 菱代は思わず噴き出したが、男性がこちらをジロリと睨み付けたのを感じ、慌てて顔を背けて麻婆豆腐を口に入れた。
 しばらく沈黙が続いた。
 向こう側でカップルがのっそりと立ち上がりドリンクバーへ向かうのが見えた。青かった空が僅かに黄金色の光を帯び始めていた。
 菱代はできるだけゆっくり食べるようにしていたが、それでも食べ終えてしまった。どうしよう。菱代はチラチラと男性に目をやりながら最後に残っていたスープを飲んだ。
「だったら、どうしろって言うんだ」
 ずっと黙り込んでいた男性は、やがて憮然とした声を出した。
 誰も何も答えなかった。
 男性は静かに立ち上がり、重い足取りで通路をゆっくりと歩き始めた。もともと丸かった背がよりいっそう丸くなって、なんだか体が一回り小さくなったようだった。
「ありがとうございました」
「ありがとうございました」
 店員たちが輪唱する。
 自動ドアが閉じるとようやく店の中の空気が緩んだ。菱代が近くに立っている店員に向かって軽く頷くと、店員は苦笑しながら頷き返した。
 やっぱり頼まないと悪いかな。
「コーヒーとショートケーキをください」
 菱代はメニュー表のデザート欄を指差して言った。

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