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ブラックコーヒーは二杯目に

 朝からずっと得意先を回っていたので、いくら体力に自信のある甲斐寺とはいえ、午後になるとさすがに疲れが溜まり始めて、そろそろどこかで休憩を取りたいと思っていた。
 賑やかな駅前の大通りから、一本 細い道へ折れるだけで、さっきまでの喧騒はどこへ行ったのか、急に静かな商店街が現れる。古ぼけたアーケードに覆われた通りの左右にある店は、半分ほどがシャッターを降ろしていて、どうやらもう営業はしていないようだった。
 甲斐寺は腕時計を見た。次の約束までまだ少し時間がある。
 静まり返った商店街の中をのんびり歩いていると、ふと一軒の瀟洒な建物が目に飛び込んできた。レンガ造りの壁に木枠の格子窓。薄らと色のついたガラスを通して見える赤いソファやカウンターに並んだサイフォンは、昔ながらの喫茶店といった趣で、どこか懐かしささえ感じさせた。
「コーヒー」とだけ書かれた白い看板もかえって雰囲気がある。
 甲斐寺は吸い寄せられるようにふらふらと店の前に立ち、重い木の扉を引いた。
「あのう」
「はい、コーヒーですね」
 甲斐寺が声をかけるよりも先に、カウンターの向こう側に立っていた白髪の男性がいきなりそう言った。ひょろりと痩せて背が高く、白いシャツを着て黒いスラックスを履いている。やや暗めの銀色をした蝶ネクタイは髪の色に合わせているのだろう。いかにも、もう長年ここでマスターをやっているといった風情を全身から漂わせている。
「じゃあ、そこに座ってください」
 マスターはカウンターの中央を指差してから、サイフォンの下に置かれたアルコールランプに火をつけた。
「はあ」
 甲斐寺は唖然としつつも男性に向かって頷き、カウンターの椅子に腰を下ろした。キョロキョロと周りを見るが、壁にも抽象画が掛けられているだけで、メニューらしきものはどこにも置かれていない。
「すみません、メニューを」
「ありませんよ。うちは、コーヒーだけですから」
 マスターは肩をすくめた。
「でもほらアイスコーヒーとか」
「うちは、ホットコーヒーだけです」
 フラスコ内の水がグツグツと沸騰して、漏斗を遡り始める。
 なんだか狐につままれた面持ちのまま、甲斐寺は次第にコーヒー色に染まり出した湯を見つめた。メニューがたった一つしかないとはシンプルにも程があるが、自信がなければできないことだし、それで長年この店をやっているのだとしたら、たいしたものだと思う。
 カウンター越しにすっと細い腕が伸びて、目の前に大ぶりのコーヒーカップが置かれた。
「はい、どうぞ」
 美しいカップだった。青い釉薬のかかった厚手の陶器は、持ち手の部分がぐるりと一度捻られた形をしている。
 甲斐寺はそっとカップを手に取ると、中に目をやってから思わず首を傾げた。カップには何も入っていなかったのだ。甲斐寺は顔をあげ、怪訝な表情でマスターを見た。
「なんでしょう?」
 マスターは親しげな笑みを浮かべて甲斐寺を見た。
「これ、 何も入っていないようなんですが」
 カップを高めに持ち上げて、甲斐寺は中をマスターに見せる。
「ほら。これじゃ飲めませんよ」
 カップの中を見せられたマスターの顔がゆっくりと曇った。皺だらけの顔がますまず皺に埋もれる。
「コーヒー、飲めませんか」
 マスターの声が微かに震えた。
「ええ。これですからね。さすがに飲めませんね」
 甲斐寺が淡々と答えると、マスターの両肩からがっくりと力が抜けたように見えた。
「そうですか。うちのコーヒーは飲めたものじゃないと、そう言いたいんですね」
 寂しそうな口調でそう言うと、マスターは静かに俯いて唇を噛んだ。
「いや、あの」
「そりゃまあ、こんな年寄りの淹れるコーヒーなんて、飲めませんよね」
 俯いたまま言う。
「だから、そういうことじゃなくて」
 甲斐寺は慌ててカップを持っていないほうの手を激しく振った。
「でもお客さん、さすがにこれは飲めないと、たった今そう仰ったじゃありませんか」
 マスターは顔を伏せたまま、潤んだ目だけを甲斐寺に向けた。
 甲斐寺はカップをそっとカウンターに置いてから、額を掻いた。一体どうなっているのか、わけがわからない。もしかしたら彼は見た目よりもずっと高齢で、ものごとがわからなくなっているのだろうか。自分でコーヒーを淹れたかどうかも覚えていられないのだろうか。もしそうだとしたら。
 自分を見つめるマスターの悲しそうな瞳を見ているうちに、 甲斐寺の胸の奥に何やら痛みのようなものがチリチリと広がっていく。
「ふうっ」
 大きな溜息を吐いたあと、甲斐寺は再びカップを持ち上げて縁を口につけた。あたかも液体が入っているかのように、空っぽのカップを次第に傾けてコーヒーを飲む真似をしてみせる。寂しげだったマスターの顔がパッと明るくなった。
「どうですか? お味は?」
「ええ、美味しいですよ」
「ああ、よかった」
 どうやらマスターは胸を撫で下ろしたようだった。
 やっぱりそうなんだ。だったらどこまでも付きあうしかないだろう。こうやって飲むふりをするだけで、マスターの気持ちが晴れるのなら、それでいいじゃないかと甲斐寺は開き直ることにした。
 しばらく飲む真似をして、甲斐寺はカップをカウンターに置いた。もちろん飲み終えたふりだ。コツンと小気味よい音がカウンターから響いた。
「本当に、美味しかったでしょうか?」
 相変わらず甲斐寺をじっと見つめたまま、まだどこか不安げな声色でマスターが尋ねるので、甲斐寺は精一杯の笑顔を見せた。
「もちろんですよ。とても美味しかったですよ」
 そう言った途端、マスターの表情がそれまでとは打って変わって太々しいものに変わった。
「ふん。お客さん。あなた嘘つきだね」
 片側の口許が歪んでニヤリと笑う。
「えっ」
「空っぽのカップを口にして美味しいだなんて。相当な嘘つきですな」
「ちょっと待ってくださいよ。だってそっちがカップを置いたんじゃないですか」
 怒りと恥ずかしさが混ざって、甲斐寺の顔がみるみるうちに赤くなっていく。
「ほら、これがコーヒーですよ」
 マスターは腕を伸ばして再びカウンターにコーヒーカップを置いた。こんどはちゃんと中身が入っている。
「お待たせしました。ホット一つです。どうぞ」
 言われるままにカップを手にした甲斐寺は、コーヒーを口に含んだ。独特の苦味と酸味が程よく混ざり合って、ふっくらとした甘い香りを引き立てている。
「むう。これは、美味しい」
 思わず鼻から深い息が漏れた。本当に美味かった。こんなに美味いのなら最初からこれを出せばいいのに、どうしてマスターは空のカップなどを置いたのだろう。いったい何がしたかったのだろう。

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