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いつか忘れる日まで

 鬱蒼と木々の詰まった深い森の奥にも初秋の風は抜けていく。冬支度を始めた葉が一斉に舞い散って、茶や赤や黄に色づいた木の葉の蝶がひらと宙を滑り、やがて下草の上に積み重なっていく。
 何層にもなった薄緑色の細い下草は、一見とても弱々しく見えるが、一日のうちにほんの僅かだけ注がれる日の光を受けて、地表に見えるそれの何倍もの長さの根を土の中に張り巡らせていた。
 生い茂った草の隙間からちらりと見え隠れする赤いものは、鈍く光を跳ね返しており、その金属の光沢は、あきらかに木々から舞い降りた蝶のものではない。
 自動車の車体だった。
 かつては輝くばかりの深紅に塗装されていたのだろうが、今は大半の塗膜が剥がれ落ち、むき出しになった鉄は錆びているどころか、激しく腐食して至る所に穴が開いている。
 タイヤは半ば溶けて地表と一体化しているようだし、かつては雨を防いでいた幌は、かろうじて原型の一部を保っている骨組みに、朽ちたベージュ色の布を僅かに残すばかりで、もう雨を防ぐことなどできるはずもなかった。
 ここに来てからいったいどれほどの時が流れたのか。彼女にもまるで見当はつかなかった。
 まだ人間たちがいたころ、何度か訪れたことのある郊外の高級レストラン。その駐車場に彼女を駐めた人間はそれきり戻らず、それ以来、彼女はただここにいる。
 初めのうちは、不思議そうに窓から中をのぞき込む人間もちらほらいたが、ある日を境に人間の姿をまったく見かけなくなった。
 駐車場に駐められた車たちは、互いの存在を感じ取りながらも、だからといって何らかの交流を図ることもなく、それぞれがその場に留まって、再びエンジンプラグに点火される日の来ることを、ぼんやりと願っている。
 夜が訪れ、再び朝が来る。はたして何十万回それを繰り返したのだろうか。いつしか駐車場は周囲を囲む森に飲み込まれた。草木に包まれた車たちは、やがて互いを見ることもなくなった。
 破れて穴の開いた彼女の幌の隙間からは、大小の虫や動物が入り込み、ときには革張りのシートに慎ましい巣をつくった。生まれて間もない子リスたちが車内を走り回ったときには、彼女も楽しかった人間との暮らしを一瞬思い出したが、やがて成長した彼らが巣立っていくと再び彼女には長い孤独が訪れた。
 数千年、いやもう一万年以上は昔のことになるだろう。ときおり彼女は、これまでこのシートに座った人間たちを思い出すことがあった。最初に後部座席に座ったのは大統領だった。堂々とした厳かなパレード行進で、ピカピカに磨かれて様々な装飾を施された彼女もライトを点灯させ、クラクションを幾度も鳴らしたものだった。工業製品と芸術品の見事な融合。彼女を形取る優美な曲線は、人間に生み出すことのできる美の、ある一つの最終形だった。
 そのあと彼女を譲り受けた映画スターはいつも海岸沿いの道を走った。潮風でマフラーやボディは傷んだが、スターはそんなことはまるで意に介せず、いつも助手席に着飾った女性を乗せて、メーターが振り切れるほどのスピードを出した。ようやく彼女は、速く走るために自分は生まれたのだと知った。アクセルを目一杯踏み込まれるたびに、彼女は全身を震わせてエンジンの回転数を上げた。
 マフィアのボスがお忍びで乗るようになってからは、かなり生臭い経験もした。人にぶつかって壊れたバンパーや血に濡れたシートを交換されるのも一度や二度ではなかった。こうして彼女は、人間は楽しみだけでなく、憎しみを晴らすためにも自動車を使うのだと知った。
 車好きの若者は、すでに年老いたと言ってもいい年齢に差し掛かりつつあった彼女を優しく丁寧に扱ってくれた。年とともに傷んだ部品を交換し、傷を塗り直し、必要な場所には油を差し、手に入らない部品は自分でつくった。おかげで彼女は、ほかの仲間たちが次々と廃車にされていく中で、年を経てからも長く走り続けることができたのだった。
 そして最後の持ち主。なぜあの人がこの郊外の駐車場に彼女を置いたまま行方をくらませたのかは今でもわからない。
 あの人だけではない。彼女たちをつくり、走らせ、ここに駐めた人間たちは、いつしか姿を消していた。数万年経ったのか、あるいは数十万年が経ったのかもわからないが、それからずっとここで彼女たちは何かを待っている。いや、何も待っていないのかもしれない。
 ときおり彼女は思う。あのエンジンの振動をもう一度味わうことはできるのだろうか。ウインカーを点滅させ、ヘッドライトで前方を照らし、クラクションを高らかに鳴らすことはできるのだろうか。
 もちろん無理だと彼女にもわかっている。人間がいなければ彼女たちは何もできないのに、その彼女たちをあとに残して人間は世界から消えたのだから。 無理だとわかったまま彼女は静かに流れていく刻に身を任せ、自らの車体がゆっくりと錆びて剥がれるのを感じながら、森の奥に留まっている。
 別に孤独が辛いわけではない。
 だが、もう乗る者がいなければ彼女の役割はない。役割のないまま、ただじっと何かを待つことを彼女は少々寂しく思うだけのことだった。
 それにしても、どうして人間は、自分たちが消えるときに彼女たちをいっしょに消し去らなかったのか。なぜ自分たちの生み出したものを、あとに残したのか。永久に消えることのできない者たちを。
 コツンと音を立てて幌の骨組みに何かが当たり、そのままシートの上に積み重なった枯れ草の上に転がった。木の実だった。
 コツン。コツン。強い風が吹いたのか、次々に木の実が落ちてくる。木の実は、半分破れてひびだらけになっているフロントガラスや、これまで周囲で倒れた何本かの木によって凹まされたボンネットに当たって地面に落ちた。
 いったいこれほどの木の実がどこにあったのか。頭上を覆う幾重もの木の枝は、確かに遙か高くまで聳えているが、それでもこれほどの木の実を蓄えていられるようには思えなかった。
 さらに数万年が経ち、延べにすれば数百メートルぶんの枯れ葉と枯れ草が溶けて土となり、芽吹いた木の実のいくつかは大きな樹木に育っていた。

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