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片づける前には確認を

illustrated by スミタ2022 @good_god_gold

 ほんの数日前までは、日の照っている日中であればTシャツ一枚でウロウロしても平気だったのに、寒波だか何だか知らないが、昨日あたりから一気に気温が下がって、コートなしでは一歩も外に出られないほどになった。この調子ならあと数日もすれば雪が降り始めてもおかしくはない。
「ぜんぜん暖まらないな」
 温風の吹き出してくるガスファンヒータの前で、両手を擦り合わせるようにしながら、甲斐寺は肩を縮こまらせていた。さっきからずっと火力を最強にしているのだが、古い木造の日本家屋は機密性に乏しいのか室内の温度はぜんぜん上がらない。
「おかしくないか、この寒さ」
 襖の隙間から居間へ入り込んだ冷たい空気が、甲斐寺の首筋をそっと撫でていく。
「でも、もう十二月だから、これが普通でしょ。逆に今までが暖かすぎたのよ」
 台所で洗い物をしていた妻は、手を布巾で拭いつつひょいと居間に顔を覗かせた。
「炬燵を出したらどう?」
「そうだな」
 こうやってじっと温風を体で受け続けているよりも、あの芯まで届く温かさに包まれるほうがいいに決まっている。
「ようし」
 甲斐寺は自分を鼓舞するように声を出してからファンヒータの前を離れた。衣紋掛けから引っ掴んだ半纏を羽織って障子を引き、腹に力を入れて廊下へ出る。寒い。かなり寒い。ガラス戸越しに見える庭も枯れ草が重なって、より一層寒々とした気配を漂わせていた。
「おおおお、寒い寒い寒い寒い」
 言っても詮無いがそれでも寒いと口に出してしまう。厚手の靴下を履いているのに、それでも納戸へ向かってペタペタと歩く足の裏には床から冷気が伝わってくる。
 ガラリ戸を開けると、入り口すぐの棚に、ダンボール箱に入った組み立て式の櫓炬燵セット一式が、炬燵布団といっしょに無造作に積んであった。炬燵布団は大きな透明の袋に収められている。
「ああ、あった、あった」
 甲斐寺はホッとした。納戸の奥まで探さなければならないだろう思っていただけに、こんなにすぐに見つかるとはありがたい。早速、ダンボール箱を引っ張り出して、梱包に使われているビニール紐に指を引っ掛けると、もう一方の手で炬燵布団の袋を掴んだ。
 居間に戻って櫓の足を組み立て、布団を均等に掛けてからその上に大きな天板を載せた。体を差し込むようにして電源を入れると、じんわりと熱が甲斐寺の足元へ伝わり始める。
「これだ。やっぱりこれだよなあ」
「これって寝ちゃいそうになるね」
 洗い物を終えた妻もやってきて炬燵に足を差し入れた。天板には茶と煎餅が置かれている。この温もり。この心地よさ。ああ、もうここから出られない。ずっと入っていたい。
 そうやって炬燵に入ったまま、しばらく二人はテレビのスポーツ中継をぼんやり眺めていたが、やがて妻の足が甲斐寺の足を撫でるように触れた。
「おい、やめてくれよ。くすぐったいだろ」
「私、何もしてないけど?」
「いやいやいや、いま足で俺の足を撫でたろ」
「本当に何もしてないってば」
「いや、撫でてるだろう、ほら」
 そう言って甲斐寺は炬燵布団をペロッと捲って中を覗き込むと、
「うわあっ」
 思わず大きな声を出して、その場で仰け反った。
 赤い光に包まれた櫓炬燵の中に、こちらをじっと見ている顔があった。目が合う。
「もしかして、母さん? そこにいるの、母さんなのか?」
「え? お義母さん?」
 炬燵の中でこちらを見ていたのは、やはり甲斐寺の母親だった。母はしばらく何かを警戒するような顔を見せたあと、ややあってゴソゴソと甲斐寺の足を伝うようにして炬燵の中から表に出てきた。
「ふう。やっと出てこられたわ」
 母はよっこいしょと声を出して座り直し、天板の急須へ手を伸ばした。
「お茶、いただくわね」
「はい。もちろんです。あ、私がお淹れします」
 妻が腰を浮かせて急須の茶を湯飲みに注いだ。母はほうと長い息を吐いてから、ゆっくりと茶を飲み始めた。
「ああ、おいしい。もうね、お茶なんてずいぶん飲んでいなかったから」
 そんな母の姿を甲斐寺は呆然とした表情で見ている。母が行方不明になったのは春先のことで、警察と町内会が一緒に広範囲にわたって捜索したものの、結局はどこへ行ったかわからないまま、およそ九ヵ月が経っていた。
「母さん、もしかして」
 甲斐寺の声が掠れた。
「ずっと炬燵の中にいたの?」
「そうよ」
 母は湯飲みを手にしたまま、ギロリと睨むような目を甲斐寺に向けた。
「まだちょっと寒かったら中に入っていたら、あんた、炬燵を片づけちゃったでしょう。だから出て来られなくなって、たいへんだったのよ」
「炬燵の中から出て来られなかった?」
「そうよ。だって片づけられちゃったんだから」
 そう言って、もう一口茶を飲む。
「だって中に入っているなんて思わないだろ」
 甲斐寺は春のことを思い出していた。たしかに中を確認しないまま片づけていた。
「ごめん。悪かったよ」
 それにしても、まさか母が炬燵の中に入っていたとは。
「ううん、私はまだいいのよ」
 そう言って母は炬燵布団を大きく捲り上げ、顔をその内側へ向けた。
「ほら、大丈夫よ」
 不意にギシギシと炬燵の脚が軋むような音を立てて揺れると同時に、中からひょろりとした高齢の男性が出てきた。畳を這うように上半身を炬燵から出し、ゆっくりと体を起こす。
「ああ」
 何かに心を奪われたように口をぽかんと開け、声にならない声を出しつつ男性は部屋の中をゆっくりと見回した。

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