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大規模な移転


 古庄がソファに転がってのんびりテレビを見ていると窓の外から何やら騒がしい声が聞こえてきた。ベランダに出て駐車場をのぞき込むと、十数人の男女が集まっているのが目に入った。古庄が居るのは四階だから彼らが話している内容までは聞こえないが、目鼻立ちははっきりとわかった。このマンションの住人もいるし、一階に入っているコンビニの店長や、近所の業務スーパーでよく見かける男性もいる。
 いったい何事なのだろうか。古庄は眉をひそめた。二、三人が井戸端会議をしているのはよく見かけるが、これだけの人数が集まって騒いでいるとなると尋常ではないことが起こっていそうだ。
 そうやってしばらく眺めていると集まった一人がこちらを見上げた。
「古庄さん」
 大きな声でそう呼んだのは同じマンションの渡師さんだ。渡師さんはとにかく世話好きで、以前、町内会の役員をいっしょにやっていたときにはずいぶんと助けてもらったのだった。
「古庄さん、ちょっとこっちへ来てもらえませんか」
 二度大きく頷いてから古庄は両腕で大きくマルをつくり、ベランダから引っ込んだ。
 ナイロン製の薄い上着を羽織った古庄はパタパタとサンダルの音を立てて階段を下り、裏口から直接駐車場に出た。あれほど暑かった夏はもうすっかりどこかへ消えてしまって、街路に植えられた銀杏が黄色く色づいている。
「おお、古庄さん。あんた掲示板は見たかね?」
 そう聞いてきたのは丸古さんだ。いったい何をしている人なのかわからないが、マンションの裏に大きな屋敷を構えていて、昼間から近所をブラブラと歩いていることが多い。
「いえ、何かあったんですか?」
「世界遺産が来るんです」
 業務スーパーの男が大きく首を振った。たしか砂原さんだ。
「来るって?」
 険しい顔をしたまま数人が一斉にこちらを見る。
「中央公園に世界遺産があるでしょ」
 と、渡師さん。
「ええ」
 古庄はさほど興味がないので詳しくは知らないが、人の暮らしていた大昔の洞窟だか何だかが見つかったとかで、数年前に市長が大騒ぎをして登録されたものだ。市がさんざん旗振り役をやったこともあって、世界遺産に認定されたときにはそこそこの盛り上がりを見せ、近隣からも観光客がやってきたが、今では訪れるものも減ってパッとしないままだった。
「あれがこんどここへ来ることになったんですって」
「えっ? このマンションに?」
 思わず妙な声が出た。
「そうよ。だからみんな困ってるの」
「だからわしは世界遺産なんかはダメだと反対したんだ」
 丸古が顔を赤くしている。
「何の覚悟もなく目先の利益に釣られてホイホイ登録するようなバカたれなのだ、あの市長は」
「今それを言ってもしかたがありませんよ」
 砂原が肩をすくめた。
「ま、あそこにあっても管理がたいへんなんだろう」
「それでね、うちのマンションの管理会社があれの管理も引き受けることにしたんだって」 
「えっ?」
 古庄はまたしても素っ頓狂な声を上げた。
「そんなことできるんですか?」
「まあ、マンションの管理も世界遺産の管理も、どっちも管理だからできるんじゃないの」
「だからってここに移して来なくてもいいのにねぇ」
「そうそう。元の場所で管理すればいいんだよ」
 何人かが呆れたように首を振る。
 移すほうも移すほうだが、そんな大事業をあっさりと引き受けてしまう管理会社もどうかしている。
「で、いつ来るんですか?」
「それが来週なのよ」
「ええっ?」
 あまりにも性急すぎる話だった。古庄は駐車場から一歩外に出てマンションを見上げた。澄んだ青い空には真っ白な羊雲が群れのようになって流れている。ほんのりと肌寒い風が心地よかった。
「そもそもあの世界遺産って洞窟ですよね。いったいどこに移すつもりなんでしょう」
 駐車場に戻った古庄は誰となく聞いた。
「どうせうちですよ」
 コンビニの店長がぽつりとつぶやく。
「いつもそうなんですよ。何とかスペースをつくって入れろってことになるんですよ、きっと」
「ちょっと待ってください」
 古庄は腕を組んだ。
「マンションの管理会社が世界遺産の管理を引き受けたんですよね?」
「ええ。修繕費の足しにできるからって」
 渡師が頷いた。
「あ、それはナイスアイディアだな」
 砂原が言う。
「よくないわよ」
「でも」
 古庄は店長に体を向けた。
「コンビニに入れたら、実際に管理するのは店長ってことになりませんか?」
「でしょう。そうなんですよ」
 店長が力強く同意する。
「世界遺産かあ」
 古庄は住宅の向こう側に見える公園の木々にゆっくりと視線をやった。
「観光客がたくさん来たらトイレを使わせろなんて言ってくるやつもいるだろうな」
「そうそう。エレベーターだって塞がるでしょう」
「ゴミだってちゃんと持ち帰るかどうかわかったものじゃないわよ」
 住人たちは次々に思いつきを口にし始める。
「いいかね。そんなことよりも一番の問題は」
 丸古がみんなを見回した。
「ここの自転車置き場がどうなるかってことだ」
「どうしてですか?」
 何人かが不思議そうな顔になる。裏の邸宅に住んでいる丸古には関係が無いはずだ。
「それが丸古さんは、マンションの住民じゃないのに勝手に自転車置き場を使ってるんですよ」
「ええっ?」
「ちょっとあんたどういうつもりなんだよ」
 砂原の眉間に皺が寄る。
「うるさい。お前らが越してくる前からわしはここに住んでるんだ」
「そういう問題じゃないだろ」
「ええい、黙れ黙れッ」
 駐車場の一画が騒然となり始める。
「みなさん、落ち着いてえッ!」
 渡師が悲鳴のような声を上げ、全員がすっと沈黙した。
「とにかく、私は世界遺産が来るのに反対します」
 息を荒らげながら渡師は片手を高く上げた。
「俺も反対だ」
「僕も」
 集まった住人たちが次々に手を上げていく。
「古庄さんは?」
「え? 私ですか?」
 いきなり名指しされた古庄は目を白黒とさせた。
「まさか賛成するんですか?」
「世界遺産が来てもいいって言うんですね?」
「それは困ります」
「じゃあ反対ですね」
 強引に押しつけられるような問いかけ方に古庄は閉口した。もちろん反対するつもりだが、その前に管理会社側の意見も聞いてみたかった。

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