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金と銀と鉄

 男は考えごとをしていた。そのせいでうっかり楽器を落としてしまったのだ。それにしてもうっかり楽器を落とすなんてことがあるだろうか。あるのだ。誰だって深く真剣に考えごとをしていたら、あらゆるものが疎かになる。しかも彼は昔気質のジャズメンだった。そういうジャズメンはだいたいうっかりしているものだ。音楽以外のことは何も出来ないのが昔気質のジャズメンなのだ。
 男が深く真剣に何を考えていたのかはわからないがジャズメンの考えることだから、それほど難しくはないだろう。いずれにしても男の考えは問題ではなかった。ここで問題なのは彼が楽器を落としたという事実だけだった。
 たいていの場合、落とした楽器は床にぶつかって壊れる。凹んだり割れたり破れたりちぎれたりする。壊れなくとも音程は狂う。どこも壊れず音程も狂わなかったとしたら、それはかなり運がいい。
 男の楽器は壊れなかった。床にぶつからなかったのだ。だがそれはけっして運がいいわけではなかった。男の楽器は湖に沈んだのだった。いったいどういう状況になれば楽器が湖に沈むことになるのか。それについては長くなるので詳しく述べないが、ともかく彼の楽器は湖に沈んでしまった。男は楽器の消えたあとにゆっくりと水面に広がる丸い波紋を、湖の畔から見つめるよりほかなかった。
「まいったな」
 男はあまり参っていなそうな口調でそう言うと、ポケットからタバコの箱を取り出した。昔気質のジャズメンは困るとタバコを吸うのだ。
 だが、男は口にくわえたタバコに火をつけなかった。
 突然、湖の中央に湧き立ち始めた泡に気をとられたのだった。
 ザバッ。大量の水が噴水のように吹き上がり、水面下から何かが浮かび上がってきた。
「ジャズメンよ」
 浮かび上がって来たのは湖の精霊だった。身にまとっている白いケープは濡れて体にぴったり張り付いているが、どうやらその下にはきっちりと水着を着込んでいるようだった。頭にかぶった水泳帽の端から長い髪がはみ出ていた。
「ジャズメンよ」
 精霊はもう一度そう言ってゴーグルを外し、目をパシパシとしばたかせた。
「先ほどお前は楽器を落としたな」
 やけに威厳のある物言いだった。
「ああ落とした。それで俺は困ってるのさ」
「そうか。それではお前が落としたのは」
 精霊はさっと素早く手を上げた。再び水面にゴボゴボと泡が立って、水中から古い木の箱が三つ現れた。もう一度、精霊が手を振ると木箱の蓋が開き、中から金属製の鍵盤がふわりと空中に浮かび上がる。一つは黄金色にもう一つは銀色にキラキラと輝いている。鋼色をした最後の一つだけはそれほど輝くこともなく、ただ鈍い光沢を放っていた。
「えーっと、お前のその、これは何という楽器なんだ?」
 精霊は眉間に皺を寄せて水面の楽器を見つめた。
「グロッケンだよ」
「はい?」
「グロッケン。グロッケンシュピール」
「シュピール?」
「そう」
「つまりその、鉄琴だな?」
 精霊は自信なさげに尋ねた。
「まあ、そうだね。鉄琴の一種だな」
 男はここでようやくタバコに火をつけた。静かに鼻から吐いた紫煙がゆっくりと立ち上り、やがて頭上で消えていく。
「ふん」
 精霊は再びやたらと威厳のある顔つきになった。
「それでは聞こう。お前が落としたのはこの金の鉄琴か? あるいはこちらの銀の鉄琴か?」
 不意に空から光が降り注ぎ、金属の音板がキラキラと輝き始めた。
「それとも、鉄琴だけに鉄かな?」
 そう言ってから何がおかしいのか口の端でニヤリと笑った。
 男はウンザリした顔つきになった。昔気質のジャズメンは自分のジョークはやたらとおもしろがるのだが、他人のジョークにはなかなか厳しいのだ。
「あんたバカだろ?」
 男はタバコを口から飛ばし捨てた。岸辺に落ちたタバコが水に濡れてジュッと音を立てる。
「バカとはなんだ」
 眉根を寄せて口をとがらせた精霊の顔がきゅっと中心に寄った。首からぶら下げているゴーグルがブラブラと揺れる。
「あのな、グロッケンってのは堅い金属じゃないと良い音が出ないんだよ。金や銀なんか使うわけないだろ」
「そうなのか?」
「そうだよ」
「それではお前が落としたのは鉄の鉄琴なのだな」
「いまどき鉄なんか使わないよ。アルミだよアルミ合金」
「わかった。ちょっと待て」
 精霊は男に向かって大きく頷くと、さっと右手を素早く振った。そのまま水面を見つめていたが何かが起こる気配さえなかった。
「これはどういうことだ?」
 慌てて何度か手を振るがやはり何も起こらない。精霊は怪訝な顔つきになった。
「いいよもう。そろそろ行かないと、ライブに遅れちまうからな」
 精霊の様子を黙って見ていた男は、やがてひょいと肩をすくめた。
「何がしたいのかわからないけど、俺に何かしてくれようとしたんだろ。あんたのその気持ちだけで十分だよ」
 男は片手を軽く額の上に当てて、敬礼のようなポーズをとった。
「そんじゃ、またな」
「待て。待つんだ。待ちなさい」
 精霊が大きな声を上げた。
「まだ何かあるのか?」
「いいから、ちょっとだけ待ちなさい」
 精霊はそう言ってゴーグルを付け直すと、ブクブクと音を立てながら水の中へ沈んでいった。
 男は湖岸の大きな石に腰を下ろしてもう一本タバコを吸った。さらにもう一本吸おうとしたところで、再び湖の中央で水が噴き上がり始めた。
「ふううう」
 水中から現れた湖の精霊は大きく息を吐いてからゆっくりとゴーグルを外し、男を見た。
「金や銀の鉄琴は要らないのだな?」
「ああ、要らない。役に立たないからな」
 男は座ったまま答えた。ジャズメンは自分の欲しいものがはっきりしている。不要なものは何一つ持たず、宵越しの金も持たない。有り金はぜんぶ飲む。それが昔気質のジャズメンなのだ。
「ふむ」
 精霊は困った顔で腕を組んだ。
「もしもここで鉄を選べば、正直者として金と銀の鉄琴ももらえるのだが、お前は鉄も要らないのだな?」

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