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リカバー

 他人に頭を触られるとつい眠くなるのは、はたして自分だけなのか、それともみんなもそうなのか。目を閉じたまま甲斐寺はそんなことをぼんやりと考えていた。
 ときおり髪がキュッと引っ張られると頭皮に心地よい刺激が加わり、思わず鳥肌が立ちそうになった。スシャッ、スシャッとリズミカルに響くハサミの音が、ゆったりとした音楽に混ざり合い、甲斐寺を深い眠りに誘う。

 しばらく風邪気味だったこともあり、髪を切るのは久しぶりだった。
「ずいぶん伸びましたね」
 いつも担当してくれる理容師が、そう言って甲斐寺の耳の横に長く垂れた髪を持ち上げる。
「切ると寒いかなと思って、ちょっと伸ばしてたんだ」
「みなさん、冬はそうなりがちですよね」
 本当かどうかはわからないが、彼女は真顔で答えた。
 たいして髪型にこだわりはないので、いつものようにと伝えると、あとはそっと目を閉じる。あれこれ考え事をしているうちにやがて眠り、起こされたときには散髪が終わっている。それがいつもの流れだった。

「痛ッ」
「うわああああ」
 後頭部に強い衝撃を受けて甲斐寺がハッと目を覚ましたのと同時に、理容師が大きな声を上げた。驚きの声ではなく、明らかに悲痛さと憐れみを纏う絶望的な叫び声だった。
「どうしたんですか?」
 聞くが理容師は何も答えない。鏡越しに見ると彼女は泣きそうな顔で甲斐寺の後頭部をじっと見つめていたが、やがてすっと首を横に向けた。
「あのう、店長」
「どうした?」
 先ほどの叫び声が気になっていたのだろう。怪訝な顔をした店長がすぐに現れ、理容師が指差す先に目をやった。
「うわっ」
 店長の目が見開かれ、みるみるうちに顔が青ざめていく。
「どうするんだよ」
「すみません」
 そのやりとりで甲斐寺は不安になった。
「ちょっと、どうしたんですか? 教えて下さいよ」
「天豊さん、ちょっといいですか」
 店長は甲斐寺の質問には答えず、青くなったまま店の奥に向かって声をかけた。
「なんでしょう?」
「これを見て」
 ニコニコしながらやってきたカリスマ理容師の天豊は、甲斐寺の後頭部を一目見て顔を引き攣らせた。
「うわあ」
 またしても絶望的な声だった。
「これ、なんとかならないかな?」
「うーん」
 天豊は低い唸り声を上げてからゆっくり腕を組み、顔を上下左右にずらすようにして、甲斐寺の頭をいろいろな角度から眺めはじめる。
「あのう、すみません、何が起きているんでしょうか?」
「うーん」
 天豊はもう一度唸り声を上げた。
「さすがにこれは厳しいかも」
 悲しそうな表情で首を左右に振る。
「そうか」
 店長は顎に手を当てて、しばらく何か考え込んでいるようだった。やがて担当の理容師にそっと囁いた。
「とりあえず塞いでおけ」
「はい」
 微かな声だったが甲斐寺にははっきり聞こえた。
「塞ぐ? 塞ぐって何ですか? 何を塞ぐんですか?」
 甲斐寺は首を捻って後ろを見ようとした。後頭部に触って確かめたいが両手はカットクロスの下にある。
「塞ぐだけじゃダメだよ」
 後頭部に触れようとしていた理容師の前に天豊がすっと手を伸ばした。
「ちゃんと入れておかないと」
「あ、そうか」
 理容師はハッとした表情で天豊に顔を向けた。
「すみません、忘れていました」
「そうだよ。ほら、これ使っていいから」
 そう言って天豊はポケットから何かを取り出すと理容師にそっと渡した。いったい何を渡したのか。鏡に映った自分の姿に隠れて見えない。
 理容師が両手を甲斐寺の後頭部に当てた。
 不意にグイッと首の付け根を強く押されるような感覚があった。
「ん?」
 痛みはなく、むしろマッサージをされているような心地よさである。
「どうでしょう?」
 恐る恐る理容師は店長と天豊に聞いた。
「うん、まあいいんじゃないか」
「いちおう塞がったね」
 店長と天豊が顔を見合わせながら何度か頷くと、それまで凍りついていた彼女の表情もようやくホッと緩んだ。
「ありがとうございました」
 ペコリと二人に頭を下げてから、鏡の中の甲斐寺に声をかける。
「すみません、お待たせしました」
「あの、何があったんです?」
 もう眠気など完全に吹き飛んでいた。
「あ、何でもありません。大丈夫です」
「いや、大丈夫じゃないですよね。あんなにみんなで困った顔をしていたんですから」
「本当に大丈夫ですよ」
 彼女は棚から手持ちの鏡を取り出し、甲斐寺の後ろで広げて見せた。
「ほら」
 頭をゆっくりと左右に動かしながら、じっくりと後頭部を見るが特に気になるところはない。
「たしかに、問題なさそうですね」
 何か大きなミスをされたのかも知れないが、うまく修正できたのか、それともそもそも理容師だけが気にするようなミスなのか、そのあたりの按排が甲斐寺にはわからなかった。

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