看板
温泉町へ向かう列車の窓から流れていく風景を眺めているうちに、なんだか誘われたような気がして、天豊はここで降りたくなった。宿のチェックインまではまだ時間があるから問題はないだろうと途中下車を決めた。一人旅の気軽さはこういうところにあるのだ。
改札もない無人の駅舎を出るとどこからか花の香りが漂ってくる。何の花かはわからないが懐かしい香りだった。
駅前からは、まっすぐ山の中へ続く道が一本あり、これがどうやら中央通りのようだった。シャッターの下りた建物がずらりと並ぶ中、ときどきぽつりと開いている店があるものの、誰一人歩いている者はなく、カラスの鳴き声が聞こえるほかは、車の走る音さえ聞こえない。ただ寂れた気配だけが晩秋の冷たい風とともに天豊の耳元をくすぐった。
振り返って駅名を見ようとしたところで、町の観光案内看板が天豊の目に入った。それほど上手いとはいえないイラストと手書きの文字で町の名所を記してある。どうやらここも温泉町らしい。
看板の端には浴衣を着た男女の絵が描かれていて、ちょうど顔のあたりがくりぬかれている。いわゆる顔出し看板だ。天豊はこうしたものが苦手で一切やることはないが、ちょっとした観光地には必ずといっていいほど、この手の顔出し看板が置かれているから、きっとそれなりに楽しむ人も多いのだろう。
すっかり色あせた看板をしばらく眺めたあと、天豊はあてもなく駅前の道をぶらぶらと歩き出した。
やがて奇妙なことに気づいた。
町の至るところに顔出し看板が置かれているのだ。開いている土産物屋や喫茶店、小さな雑貨店などの前だけでなく、シャッターが下りている店の前にも必ず顔出し看板が置かれている。少しでも客の足を止めようとする工夫なのだろうが、顔出し看板を競っているようにも見えてなんだか微笑ましくさえある。
緩やかな坂道をしばらく上がっていくと、両側にいくつもの店が連なるブロックに差し掛かった。人がいないことには変わりないが、どうやらこのあたりは比較的新しい店が多いようで、おしゃれなカフェなども並んでいる。ここでは顔出し看板が塀のように横一列に並んでいて、ここまでくると、もはや微笑ましさを通り越して、異様な感じさえした。
顔出し看板の多さに呆気にとられつつ、しばらく歩いているうちに、しだいに喉が渇いてきたので、天豊は手ごろな店に入って休むことにした。見れば、雰囲気の良さそうな喫茶店がある。店の前には当然、顔出し看板が置かれていて、ギターを演奏する男女の絵が描かれていた。
店に入ると、厨房との仕切りになっているらしい壁の窓から、白いワイシャツに細いネクタイを締めた若い男性がひょいと顔をのぞかせた。アルバイトの店員にしては格好がよい。おそらく彼が店長なのだろう。
「いらっしゃいませ、奥のテーブルへどうぞ」
仕切りの壁には大きなペンギンの絵が描かれていて、ちょうどペンギンの顔の部分が窓になっているものだから、まるで顔出し看板のようになっていた。
何もここまで顔出し看板にしなくてもいいだろう。天豊は思わず吹き出しそうになった。
テーブルについてゆっくりメニューを手に取る。天豊のほかには、年配の男性が一つ間を空けた向こうのテーブルで新聞を広げているだけで、店内はがらんとしている。スムースジャズの柔らかなリズムが窓から差し込む光と合わさって、空気を心地よく緩めていた。
「すみません」
飲み物を決めて厨房に声をかけた。が、返事はなかった。仕切り壁の向こう側では、さっきの男性が動き回っている姿がちらほらと見えているのに、彼はこちらを見ようともしない。
「あのう、いいですか」
もう一度、今度はさっきよりも声をやや大きくして店員を呼んだ。それでも、やはり何の反応もないままだ。
「ダメだよ、顔をはめなきゃ」
年配の男が新聞から顔をあげて天豊に言った。
「はい?」
「ほらそれ」
男は天豊のいるテーブルの傍らに置かれた板を指さした。三寸四方ほどの板は中央が楕円形にくりぬかれている。
天豊は板を持ち上げてテーブルの上に置いた。プラスチックか段ボールだろうと思っていたが、どうやら素材は木のようで意外に重い。テーブルの上でくるりと回して反対側を見ると、ワイシャツをきた人の上半身が描かれ、これもまた顔の部分がくりぬかれていた。
「それが客の顔出しだよ、注文するときはそれに顔をはめなきゃさ」
男はそう言って再び新聞に目を落とした。
客の顔出し看板? 事情はよくわからないが、ともかくやってみるか。天豊は看板をテーブルの上にまっすぐ立て、後ろ側から穴に顔を入れた。
「すみません」
「はい、ただいま」
店員の声が聞こえた。すぐにテーブルのそばに立ったのはさっきの若い男性だった。両手で持った板の穴から顔を出している。板にはいかにもオーナーといった雰囲気の、蝶ネクタイをした恰幅のいい男性の姿が描かれていて、穴から覗かせた顔とのギャップがおかしい。
天豊は顔出し看板の穴から顔を抜き、店長に向かって言った。
「カフェオレを一つ」
店長は何も聞こえなかったかのようにその場に立ち尽くしている。
まさか。
天豊は再び顔出し看板の穴に顔を入れて、そのまま注文を繰り返す。
「カフェオレを一つ」
こんどは聞こえたようだった。
「カフェオレですね。ホットとアイスがございますが」
「ホットで」
「かしこまりました。少々お待ちください」
そう言って店長は自分の看板から顔を抜いた。天豊も穴から顔を抜いて、看板をテーブルの傍らに置いた。
「客用の顔出し看板か」
なるほど、そういうことなのか。この町の顔出し看板にはそういう意味があるのか。天豊はえらく感心した。やっぱりここは顔出し看板の町なのだな。
そろそろ宿に向かうのにいい時間になってきた。店を出てぶらぶらと駅前まで戻った天豊は例の観光案内看板をしげしげと眺めていた。やがて意を決したように看板の裏側に回った。そう。ここは顔出し看板の町なのだから。せっかくだから。
穴に近づいてゆっくりと顔をはめると、ちょうど通りが正面になる。
天豊は思わず目を丸くした。
さっきまで人っ子一人いなかったはずの駅前の通りには、いつのまにか両側にずらりと屋台が並んでいた。その間を大勢の人々が楽しそうにぶらぶらと歩いている。土産物を探す家族連れや、浴衣を着た男女がごった返し、温泉町ならではの賑わいを見せていた。風車を手にした男の子が、看板から顔を出している天豊の目の前を勢いよく走り抜ける。
「うわあっ」
天豊は大きな声を上げた。
「天豊さん、大丈夫ですか?」
一人の女性が天豊に声をかけた。
「どうして私の名前を?」
そう言いながら女性の顔を見た天豊の背筋に痺れが走った。女性は天豊が若いころにつきあっていた恋人にそっくりだった。まさかこんなところで出会うなんて。
「ちょっと待ってください」
天豊は急いで穴から顔を抜き、看板から離れた。
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