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西口

illustrated by スミタ2023 @good_god_gold

 伊福が異変に気づいたのは夜も遅くなってからのことだった。
「俺に西口ができている?」
 あまりの驚きに心臓の鼓動が早まり、額がカッと熱くなった。全身の筋肉から力が抜けてしまいそうだった。
 慌てて点きっぱなしのテレビを消そうとしたが、指先が震えてリモコンを掴むのにやたらと時間が掛かる。なんとかボタンを押してテレビを消すとすぐに部屋には静寂が訪れた。遠くでバイクの走る音が耳に届く。
 晩酌に焼酎をずいぶん飲んだから、まだ酔っているのではないかと何度も見直したが、いくら見てもそれは間違いなく西口だった。ちゃんと案内表示も出ている。
 いつのまにできたのか、まるで気づかなかった。
 西口ができるのは初めてのことで、伊福はしばらく茫然とした表情でできたばかりの西口を見つめた。もっとも西口だけでなく、これまでどんな通用口もできたことはなかった。
 テーブルのグラスに水をたっぷりと注ぎ、ひと息に飲み乾すと、それまで頭に上っていた血がゆっくりと体の中へ戻っていくような気がした。
 なんとか気を取り直した伊福は、ふうと大きく深呼吸をしてから、そっと中を覗き込もうとしたが、西口には既に金属製のシャッターが降りていて中を見ることはできなかった。白く塗装された真新しいシャッターには傷ひとつなく、赤い文字で利用時間は六時から二十二時だと小さく書かれている。軽く拳で叩いてみたが、カシャンと大きな金属音が響き渡っただけで、何の反応もなかった。
 倒れ込むようにソファに転がった。
「よりによって西口かよ」
 誰かを咎めるような口調で独り言ちたが、できてしまったものはしかたがない。横になったまま天井の小さな汚れをじっと見つめていると、だんだん顔のように見えてくる。やがて伊福は深い眠りに落ちた。

 窓の外を走るバイクの音で目を覚ました伊福は、しばらくソファに横たわったままぼうっと部屋の中に視線を巡らせていたが、やがて壁の時計に目をやるとハッと我に返って上半身を起こした。
 弾けるようにソファから飛び起き、急いで西口を確認する。やはり夢ではなかった。伊福には西口ができていた。
 七時二十分。
 シャッターはとっくに開いていた。伊福は恐る恐る中を覗き込んだが、入ってすぐの場所にどこかへ上っていく階段があって、そこから先は見ることができなかった。階段を上るとどこへ続いているのか確かめたかったが、自分で自分の西口に入ることはできない。中がどうなっているのかは、出てきた者に聞くよりほかない。
 いつもよりもゆっくり顔を洗い、時間をかけてコーヒーを淹れ、のろのろと出勤の準備をしながら、伊福は誰かが西口から出てくるのをしばらく待っていたが、結局いつまで経っても西口を利用する者は現れなかった。
 通勤中のバスの中でも、会社に着いて仕事を始めてからも、伊福の西口からは誰も出て来なかったし、入っていく者もいなかった。
 いったいどうして誰も利用しようとしないのか。人が出入りしない西口なんて何の意味もないじゃないか。それなのになぜ俺に西口ができたのか。
 西口のことが気になってどうも仕事が手に着かない。パソコンの画面を見ていたはずなのに、ふと気づくと西口に目をやっている。
 これではダメだ。
 伊福はオフィスチェアの背にもたれかかり、大きく両腕を伸ばした。気持ちを切り替えようと思い切り伸びをする。
「どうしたんです?」
 ふいに声をかけてきたのは部下の三葉だった。腕には午後の会議で使う資料の束を抱えている。
「すごくお疲れの顔ですよ」
 そう言って鳩のように首をカクッと曲げた。
「じつは俺、西口ができたんだよ」
 伊福は伸ばしていた体を縮めると、周りに聞こえないよう囁くような声を出した。
「ええっ? いつですか?」
 ふだんから大きな目がさらに大きく開かれた。
「それがさ、せっかくできたのに誰も使おうとしないんだ」
 伊福はデスクのボールペンを指先で摘まみ上げて、ポンと投げた。カラカラと音を立てて転がったボールペンはパソコンにぶつかって動きを止めた。
「だから、どこにつながっているのかもわからない」
 不貞腐れた声を出したあと、もう一度ボールペンを取り上げて右手で持つと、ペン先でパチパチと左手の手のひらを何度も叩いた。
「営業三課の、たかね先輩ってご存じですか?」
 三葉がすっと顔を寄せた。
「中村河? 知ってるよ」
 伊福は若手社員のおとなしそうな顔を思い浮かべた。いつもにこにこと静かに笑っている印象がある。
「あの人、ああ見えて中央口と南口と港湾口があるんですよ」
「三つ?」
 伊福はごくりと音を立てて唾を飲み込んだ。まるでそんなふうには見えなかった。人は見かけによらないと言うが、まさか三つも通用口があるなんて。
「中央口はすごく出入りが激しいからめちゃくちゃ疲れるって言ってました」
 三葉はにっこりと微笑んだ。
「だから出入りなんてないほうがいいんですよ、きっと」
 伊福も柔らかい笑みを浮かべた。落ち込んでいる伊福をなんとか励まそうとする部下の気遣いが嬉しかった。
「そうだな、きっと」
 三葉に同意して大きくうなずいた。たしかに出入りがあったらあったで、あれこれと煩わしいことが起こるのだろう。それでも、内心ではやはり誰かに自分の西口を使ってもらいたかった。
「でも、もしよかったら」
 ドンと重い音を立てて三葉はデスクに資料の束を置いた。
「私、伊福さんの西口を使ってみましょうか?」
「えっ?」
 思いがけない提案に伊福の心臓がドキンと跳ね上がった。
「どこに続いているか見てきますよ」
「本当に?」
 何かを思いついたように三葉がぴょんと眉を上げた。
「伊福さんの西口が、たかね先輩につながってたらおもしろいですよね」
 そう言い残すと軽い足取りで伊福の西口へ入って行く。伊福はその後ろ姿を目で追ったが、三葉が階段を駆け上がるとたちまち視界から消えた。

 伊福はしばらくその場でじっとしていたが、やがて立ち上がり給湯室へ向かった。冷蔵庫を開けて、冷やしてあったペットボトルの炭酸飲料を取り出した。キャップを捻るとシュッと音を立てて、底から口に向かって小さな泡が次々に湧き上がっていく。
 もしも俺の西口が中村河とつながっていたら。さっき三葉の言ったことが頭に残っていた。もしも彼女とつながっていたら。何とも言えない微妙な感覚だった。
 伊福はペットボトルに直接口をつけた。天井を仰ぎ見るようにしながら液体を流し込むと、パチパチと弾ける炭酸が喉を刺激して痛かった。
 俺の西口は中村河のどの通用口とつながっているのだろうか。いや待てよ。たとえ課が違うとはいえ、そういう形でつながってもいいのだろうか。人事に知られるといろいろと問題にならないだろうか。

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