ごまかす男
電話を切った砂原茂禄子は険しい顔でゆっくり立ち上がり、オフィスの中を見回した。
「みんな聞いて。来週のCM撮影の件なんだけど、今、営業の木寺くんから連絡があって、ちょっとトラブっているみたい。延期かもしれないって」
それぞれのデスクで作業をしていた若手の部員たちが驚いたように一斉に顔を上げ、部長席の砂原に目を向けた。この数ヵ月、来週のために寸暇を惜しんで仕事をしてきたのだ。いったい今さら何があるというのか。
みんなの気持ちは痛いほどわかる。砂原は窓の外へ目をやった。
企画を始めたころはあれほど厳しかった陽射しももうすっかり和らいで、赤や黄に染まった木の葉の間から、優しげな光を地面に落としている。
「たいへん申しわけありませんッ! じつはトラブルが起きまして」
いきなり井塚が携帯電話を耳に当てたまま深々と頭を下げ始めた。
「いや、何のトラブルかは知りませんが、とにかく申しわけありません」
井塚がオフィスチェアの上に正座する。
「すみません、すみません。何が起きているかはまだ聞いていなくて」
そう言ってデスクに額を擦りつけた。
「明日のCM撮影の件だということしかわからなくて。えっ? 御社じゃない? うわあ、これはたいへん失礼いたしました。深くお詫びいたします」
詫びながらデスクにガンガン額を打ちつける。
「井塚くんっ」
砂原が大きな声を出した。
「はい?」
ハッとした表情ですばやく振り向いた井塚の手から携帯電話がすっぽ抜けた。オフィスの反対側まで宙を舞った携帯電話は、若手社員のデスクで大きく跳ねて、そのままゴミ箱に飛び込んだ。
「ああ、本当にごめんなさい!」
井塚が片手で顔を覆うようにして首を左右に振る。
「井塚くん、何が起きているかも知らないのに謝罪しない!」
「申しわけありませうわっ」
オフィスフェアに正座したまま深く頭を下げた井塚はそのまま床に落ちた。
「痛たたたた」
「それでトラブルって何なんですか?」
床に転がる井塚を無視して汐樋渡端美が聞く。
「それが、クライアントの社長が自分が出演するって言い出したらしくて」
砂原は口の片端をキュッと歪めた。
これまでにもまったくない話ではなかった。昔バンドをやっていたからテーマ曲を演奏させろだの、娘が演劇部だから出せだの、趣味で映像をつくっているから編集は任せろだの、あの手この手で制作に関わりたがるクライアントは少なくない。だが、所詮はアマチュアレベルである。何でも言うことを聞いていたら、最終的に納品するCMのクオリティに責任が取れなくなってしまう。
「ええっ!? だってもうタレントとは契約済みじゃないですか」
「だから木寺くんが頭を抱えているのよ」
「それだったら、タレントに発注する前に言ってくれたらいいのに」
ほかの若手社員たちも困惑した顔になる。
「で、社長さんは自分が出演するけど、もしもタレントがやる気なんだったら、最後のセリフは絡んでやってもいいって言ってるらしくて」
「うわあ、上から目線」
若手の一人が呟いた。
「まあ、クライアントが上からなのは当たり前だから」
隣の古参部員がニヤリと笑う。これまでに散々いろいろなトラブルを乗り越えてきたベテランならではの表情だった。
ドスと音を立てて砂原は椅子に腰を下ろした。デスクに肘をつき、両手の指を絡めるように握りあわせる。
「これ、タレント側は怒るわね」
ふうと大きな溜息をついた。
「申しわけありません」
いつのまにかきちんと座り直した井塚が謝る。
「たぶん、違約金が発生します。すみません」
「上手い方法はない?」
砂原は古くからいる部下たちを順番に見る。
「こういうときは」
一人が口を開いた。
「うまい理由をつくって、どっちもなしにするのが良いかもしれません」
「人間を出さない?」
「はい」
「うーん、それでごまかせるかなあ」
砂原はデスクに乗っている企画書に視線を落とした。数ヵ月準備してきた案がまるごと消えてしまうが、クライアントもタレントも怒らせずに穏便に済ませるには、そうでもするよりほかない。
「クライアントは納得しますかね?」
若手の一人が不安げな声を出した。一週間足らずでクライアントを説得できる案を出せるかどうかわからない。
「そこは木寺くんに任せるしかないでしょ」
砂原は腹を括ったように肩をすくめた。
「あのう部長」
天豊が自分の席から恐る恐る手を上げた。
「何?」
「当日のお弁当はどうしましょうか?」
「え?」
砂原の顔が曇った。
「タレントさんのお気に入りを三種類予約してあるんですが」
「今、タレントは出さない案に変えようって話をしているの。わかってるよね?」
「あ、はい」
天豊は頷いた。
「じゃあ、お弁当は要らないでしょ?」
「そうですね。たしかにそうです」
天豊はさらに大きく何度も頷いた。
「あのう、部長」
汐樋渡が何か思いついたようにサッと手を上げた。
「どうしたの?」
「こういうときって総務の甲斐寺さんに頼むのがいいんじゃないかと思って」
砂原の目が大きく見開かれた。
「ああ、そうかも」
いつもぼんやりと自分の席で新聞を広げている甲斐寺は、まるで何の仕事もしていないように見えるが、じつはしのぶ産業の内外で起こる様々なトラブルを一手に処理していた。彼に頼めば、双方を上手くごまかしてくれるかもしれない。
「部長」
いつのまにか天豊が部長席の近くに立っている。
「何?」
「飲み物はどうしましょうか?」
「は?」
砂原の顔が再び曇った。
「いちおう、タレントさんの好みの飲み物をいくつか頼んでいるんですけど」
「天豊くん」
砂原はじっと天豊を見つめた。瞳の奥に冷酷な色が浮かんでいる。
「そうね。タレントは出ないけど、タレントの飲み物は要るよね」
切って捨てるような口調だった。
「あっ」
天豊の顔から笑みが消え、無表情のまま凍りつく。
「要りませんね、たしかに」
「部長、申しわけありません」
慌てて近づいてきた井塚が謝った。
「こいつバカなんです。すみません」
「いいからもう」
二人を追い払うように砂原は手を大きく振った。
「さあ、天豊くん。おかしなことばかり言ってないで、総務の甲斐寺さんのところへ行ってきて」
「甲斐寺さんってあのトラブル解決の?」
井塚が首をひょいと傾げる。
「そう。で、なんとかごまかして欲しいとお願いしてきてちょうだい。私もあとから正式にお願いとお礼に行くから」
「わかりました」
天豊は自信たっぷりに頷くと、軽やかな足取りでオフィスを出て行った。
「甲斐寺さんってすごいんですね」
誰に言うともなく汐樋渡が呟く。
「上手くごまかしてくれるといいんだけど」
砂原も独り言のように言った。
傾いた日の光は街を金色に染めている。窓から見える空は濃紺と紫色と赤色が絵の具を溶いたようにキラキラ光りながら混ざり合っていた。
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