見出し画像

春が来る

 春はとても重要な季節だ。草木が芽吹き、生き物たちが活動を始める。すべての命が蒼く輝く季節である。
 多くの人々が待ちわびるだけにかつては競争も激しく、二〇五十年代半ばには一部の大手業者が買い占めたため、多くの人が春を迎えないまま何年も過ごすことになった。
 八十年代の終わりになってようやく春に関する法律が成立し、これで安定的に供給されるだろうと国民は期待したが、やがて国会議員や政財界の有力者の中に春を不正取得している者がいることが発覚し、大疑獄に発展した。
「我が党は国民の最後の一人に至るまで、きちんと精査して春をお届けできます」
「今後百年は、毎年安心して春をお迎えください」
 相手は自然なのだから、あまり大風呂敷を広げないほうがよいとの指摘もあったが、疑獄を受けて議会を解散したあとの総選挙では、大見得を切った政党が国民からの絶大な支持を得て大勝、盤石な政治体勢を整えた。
 ところが、近年の自然環境悪化が原因で、二二〇〇年ごろを境に春の量は急激に減り始め、政府は充分な春を確保できなくなってしまった。とはいえ、百年安心とまで言い切った政府である。
「冬と夏も春に含める」
「秋も春とする」
 無理のある法解釈が強引に押し通され、春の範囲が拡大されたが、それでも供給は追いつかなかった。
「最後の一人に至るまで、きちんと届ける話はどうなったんですか?」
「我が国は常春であるから、春を迎えていない国民は存在しない」
 内務大臣の答弁はさすがに失笑を買ったが、それでも政府は自分たちの非を認めようとはしなかった。
 春はある。充分な供給が行われている。
 いくら政府がそのような主張をしても現実に春は足りていないので、ここ三十年ほどは抽選になっていた。現実が妄言を塗り替えている。
 だが、その抽選も当選者の数が年々減って、今年は国民のごく一部、五百人にしか当たらないから、もはや五等や六等のある宝くじよりも遥かに確率が低かった。
 それでも春が近づくと、今年こそは自分に当たるのではないかと多くの国民が期待して発表を待つことになる。

 四層空間で天文信号を検索していたシュンヤの脳にいきなり伝送視覚が直結された。
「おっと、なんだよ」
 最近は事前通知なしの伝送が多い。あわてて単層に意識を戻して視野の焦点を設定する。オレンジ色に光る国民番号がシュンヤの目の前に浮かび上がり、ゆっくりとスクロールを始める。
 春の抽選結果だった。
 どうせ当たるはずがないからと、シュンヤは最初から申しこんでいなかった。もともとそれほど春を必要だとは感じていないのだ。生まれてから一度も春を過ごしたことがないシュンヤにとっては、春は先輩たちが懐かしそうに語る幻のようなものでしかない。
「申しこんでいない人間にまで、いちいち結果を送ってくるなよ」
 こうやって平然とプライベート時間を奪ってくるのだから、どうやら政府は国民の都合などどうでもいいと考えているらしい。
「やることが雑だよ」
 呆れたように軽く手を振り、シュンヤは目の前の数字を消し去った。ところが再びぼんやりと光る数字が目の前に浮かび上がり、高速でスクロールしたあと急にぴたりと止まった。
「え?」
 視野の中央にシュンヤの国民番号が表示されていた。番号はゆっくりと点滅を繰り返している。
「当たった?」
 わけがわからなかった。申しこんでもいないのになぜ当選したのか。
 シュンヤはとりあえず海馬回路を開き、過去一年の記憶データにまとめて検索をかけた。もちろん春を過ごしたことのないシュンヤに春に関する記憶などほとんどない。誰かが春について話した言葉、報道された情報、映画やドラマで見た春、店の名前。いくつか引っかかってきた記憶はあったが、春の抽選に申しこんだ記憶はどこにもなかった。
「やっぱり申しこんでないよな」
 部屋を包むドームパネルの外側を何かがすっと動く気配がして、シュンヤはハッと顔を上げた。パネル壁の透過率はゼロに設定してあるから外を見ることはできなかったが、もちろん、だからこそ外から室内を見られることもない。
 室外遠視を視覚野につなぐと、大きく黒い遠視カメラを肩に担いだ大柄な男性たちがドームの周りに集まっているのがわかった。マスメディアの人たちだ。これだけ視覚伝送が一般化し、射映機器も小型化しているのに彼らは二百五十年前からスタイルを変えていないのだ。マイクを持った女性の顔はやけに小さかった。
 世の中の些事にまるで関心のないシュンヤにも、いったい何が起こっているのかはさすがにわかった。春が当たった人間の取材に来たのだろう。それにしても当選者の発表から、せいぜい三十万ミリ秒しか経っていないのに、もう特定して尋ねてくるのだから、たいしたものだ。シュンヤは妙なところに感心した。
 ひっきりなしに鳴り響く呼び出し音を切り、脳内に届く通知もすべてオフにしてから、シュンヤは体重をかけてソファに腰を下ろし、両手を頭の後ろで組んだ。
「春か」
 そう言ってぼんやりと天井を見つめる。
 すべての命が蒼く輝く季節だと言われてもよくわからなかった。もちろん知識としては知っているし、アーカイブでも見ている。春を経験したことのある者からは、妙な高揚した話やら、花見での失敗談やら、つい浮かれた恋の話などを武勇伝のように聞かされるが、どうも実感が伴わなかった。話を聞けば聞くほど、春とは、ただ頭がおかしくなって冷静さを失う状況のように思えてならなかった。
 シュンヤはゆっくりと目を閉じた。
 九十歳以上の先輩たちは、昔は毎年自然に春が訪れていたんだよと言うが、にわかには信じがたかった。毎年のように頭が自然におかしくなっていたのか。
 それなのに、なぜみんな春を迎えたがるのだろう。シュンヤは目を閉じたまま、さらにソファへ深く沈み込んだ。
「俺も春を迎えたら何か変わるのだろうか」
 もしも春を迎えたら、異層空間へ意識を出入りさせるだけのこの単調な日々に、何かしらの彩りが加わるのだろうか。先輩たちの言うような高揚感を味わえるのだろうか。それとも、頭がおかしくなって闇雲な恋に走るのだろうか。自分がそうなるとは想像できない。
 シュンヤはゆっくり目を開けて、頭の後ろで組んでいた手を解いた。
 弾むようにソファから起き上がり、ドームパネルのハッチに手を当てた。
 すっとパネルの一部が消え、部屋の外とつながる。
一歩足を踏み出すと、あっというまに大きなカメラに囲まれた。
「春の抽選に当たった気分はいかがですか?」
「どんな春を迎えたいですか?」
「ご職業は?」
「今まで春を迎えたことはありますか?」
 矢継ぎ早に質問が飛んでくる。答えようとして考え始めるとすぐに次の質問が耳に入ってくるから何一つ答えることができない。
「あ、すみません。いいですか」
 やけに顔の小さな女性がマイクを持った手をシュンヤに差し伸べた。
「春ってどういうものだと思いますか?」
 女性はシュンヤと同じくらいの年に見えた。きっと自分も春を知らないのだろう。
 シュンヤはクスリと笑った。春を知らない者が春を知らない者に、春について聞いているのが妙におかしかった。まるでルールを知らないゲームに敵味方に分かれて参加するようなものだ。
「今どうして笑ったんですか? やっぱり春だからですか?」
「いや、俺も春は知らないんです」
「じゃあ、どういうものだと思います?」
「みなさんと同じように知識で知っているだけです」
 でも。と、シュンヤは思った。
 春を迎えると考えただけで、どこか体の奥から不思議な感覚が湧き上がってくるような気がしていた。春には興味がなかったし、これまで春を迎えたいと思ったこともなかったのに、どうしてこんな気分になるのかが不思議でならなかった。
「春を迎えたら、きっと何かが変わるような気がします」
 意味もなく走り出したいような、踊り出したいような、叫びたいような、もどかしい気持ち。すでに俺は頭がおかしくなり始めているのだろうか。これが春を迎えるということなのだろうか。
「だから、思い切り楽しんでみます」
 シュンヤはそう言ってにっこり笑うとそのまま部屋の中へ戻った。背中の後ろでドームのハッチが閉じられるのを感じた。
「ふう」
 大きな溜息をつく。
 知らず識らずのうちに心臓が昂っていた。額と背中がじっとりと汗ばんでいる。体の隅々にまで力が注ぎ込まれたような気がした。今なら何だってできるような気がしてくる。まだ春を迎えていないうちからこうなるのだから、本当に春を迎えたらどうなるのだろうか。
「春か」
 もう一度そう呟いた。みんなが春を待ち焦がれる理由は、きっとこれなのだ。この感覚を味わいたくて春を求めているのだ。

ここから先は

248字
この記事のみ ¥ 100

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?