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たった今、壊れたのだ

 デスクの前で表情を強張らせたまま、井塚は身じろぎもせずに固まっていた。眉間には皺が寄り、目の焦点は合っていない。
 窓から見える青空を銀色の機体をキラキラさせながら飛行機がゆっくりと横切っていく。
 広々としたオフィスの中を部下たちが忙しなく行き来している様子も井塚にはまったく見えていないようだった。ぼんやりと口を開け、目の前に置かれたノートパソコンの画面をじっと見つめている。しばらくはまるで息さえも止まっているかのように思えたが、やがて右手の指がマウスのボタンを繰り返し押し始めた。
 カチカチカチ。
 体は微塵も動かさずに、ただ指先でマウスのボタンをクリックし続ける。額に浮かんだ汗がつうっと頬を流れ、顎の先で水滴になった。
 カチカチカチカチ。
 井塚はひたすらクリックを続ける。
 飛行機の姿はもうすっかり見えなくなって、空の向こうからジェットエンジンの音だけがまだ響いていた。雲が太陽を遮ると世界の色がすっと薄くなる。
 カチカチカチカチカチカチカチカチ。
 ぽた。井塚の顎から汗が落ちた。
「さん」
 いきなり人の声が耳に飛び込んできて、井塚は我に返った。手から離れたマウスが机の端から落ちてぶら下がる。
「井塚さん」
 部下の砂原だった。
「あ、ああ。何だっけ?」
 砂原を振り返った井塚の目はキョロキョロと左右に泳いでいる。
「大丈夫ですか。さっきからじっとされてますけど」
 やけに心配そうな口調だった。机からぶら下がったマウスを不思議そうに見ている。
「これだよ」
 井塚はパソコンを指差した。口調は穏やかだが強張った表情は消えていない。
「たった今、急に動かなくなったんだ」
 壊れた機械を前にした者が必ず言うセリフを井塚もまた口にした。
「何もしていないのに壊れたんだ」
「なるほど」
 もちろん何もしていないはずはないのだ。何かをしたから壊れたのだが、いちいちそれを指摘するほど砂原も子供ではない。
「ぜんぜん動きませんか?」
「ぜんぜん動かない」
 部下と話して気が緩んだのか、いきなり井塚の表情が崩れた。
「ああもう、朝からやっていた作業が全部パーだよ。昼過ぎには必要なのに」
 今にも泣きそうな顔になっている。
「うーん」
 砂原は腕を組んだ。こうなった以上はさっさと諦めて電源を入れ直すのが基本なのだが、あまりにも井塚が悲しそうな顔をしているので、なかなか言えずにいるのだ。
「あああああああああああッ」
 井塚は椅子を後ろに倒しそうな勢いで立ち上がり、大きな叫び声をあげた。周りの社員たちが驚いて一斉に井塚を見る。
「井塚さん」
 そう言って近づいた砂原の腕を振り払い、井塚はパソコンを両手で持ち上げた。
「このパソコンめ。忙しい時に限って止まりやがって」
 ガンッ。
 机に叩きつけた。
「いいか。俺は仕事がしたいんだよ。パソコンを使いたいわけじゃないんだ」
 そう言ってもう一度持ち上げる。
「手間ばかりかけさせやがって」
 ガンッ。さらに激しい勢いで叩きつけると、背面で何かが割れるような音がした。
「このパソコンめ、パソコンめ、パソコンめッ!」
 拳でキーボードを殴り始める。
「やめてください」
 微かに声が聞こえても、井塚は止めないどころかさらに激しくキーボードを殴る。
「おい、やめろって」
 別の声も止めようとするが、井塚は止まらない。
「パソコンなんかいらないんだ、俺はッ!」
 KのキーとAのキーが外れて飛んでいった。皮膚が破れて血が滲み始める。
「やめろと言ってんだろうが、このバカがよ」
 罵る口調の低い小さな声が耳に入って、井塚はようやく何かに気づいたかのように、びくっと体を震わせると、血だらけの拳を引っ込めた。
 振り返って砂原をキッと睨みつける。
「いや、俺じゃないです」
 砂原は慌てて手を振った。
「自分が悪いくせに、なんで機械にあたるんだよ」
 声は机の上から聞こえている。二人は顔を見合わせ、不思議そうに机の上のパソコンに視線をやった。パソコンの中からこぼれ出てきた小さなゴミがぴょんぴょん跳ねている。
「うわああっ」ゴミにそっと顔を近づけた砂原が悲鳴を上げて後ずさった。
「なんだ?」
「よくわかりませんが、動いています。生きているみたいです」 
 井塚もゴミに顔を寄せてじっと見つめるが、よくわからない。抽斗を開けてルーペを取り出した。いつも印刷物のチェックに使っているものだ。
「ああっ」
 目を細めてルーペを覗き込んだ井塚も、思わず声を上げた。
 球状のガラス面を通して、人の姿がはっきり見えていた。
 パソコンからこぼれ出たのはゴミなどではない。人間だったのだ。
 灰色の作業服を着て黄色いヘルメットを被った男女が十ほど、腰に手を当ててじっとこちらを見上げている。建設工事の現場によくいる作業員といった雰囲気だが、建設現場と違って、みんな身長が一ミリ程度しかない。
「なんだ、あなたたちは」
 井塚は狼狽えたような掠れ声を出した。
「俺たちはパソコンの中にいるんだよ」
 作業員の一人が口の周りに手を当てて叫んだ。体が小さいので大声で叫ばないと声が届かないのだ。
「あんたがむちゃくちゃするから文句を言いに出て来たんだ」
 そう言って彼は井塚を鋭く指差した。
「どうしてパソコンの中にいるんです?」
 ルーペを覗き込みながら聞いたのは砂原だ。
「そりゃ、仕事に決まってるだろ」
 さっき叫んだ作業員は少しばかり声のトーンを落として言った。叫び続けるのはたいへんなのだろう。
 砂原が目を丸くして井塚を見た。
「井塚さん、この人たちって?」
「ああ」
 井塚は大きく何度も頷いた。まちがいない。機械を動かしている人たちだ。
「なのに、なんで叩きつけたり殴ったりするんだよ。危ないだろうが」
 男は強い口調で井塚を責めた。
「すみません。ついカッとなって」
 井塚は素直に謝った。彼らがいなければ機械は動かない。
「おいおいおい。ちょっと待ってくれよ。いくらカッとなったからってさ、あんなことされたら、こっちはたまったもんじゃないんだよ」
 男は呆れたように肩をすくめる。
「本当にすみません。まさかみなさんがパソコンの中にもいらっしゃるとは思いもよらず」
「何言ってんだよ。スマホだろうが自販機だろうがエレベーターだろうが、およそ機械ってやつは俺たちが動かしているに決まってるだろう」
「私たちがいなきゃ機械が動かないってことくらい、今どき小学生だって知ってるでしょ。それなのに、あんなに激しく叩きつけるなんて。業務妨害ですよ」
 隣の作業員も大声で苦情を言う。
「わかってます。わかってますが、ついうっかりしておりました。申しわけありません」
 井塚はペコペコと頭を下げ始めた。
 すぐ隣では砂原が難しい顔をして井塚たちのやりとりを見ている。
「井塚君、どうしたんだ?」
 机に向かって頭を下げている姿を不審に思ったのか、奥のデスクから部長が声をかけてきた。
「いや、何でもありません。すみません。大丈夫です」
 まさかカッとなってパソコンを壊しかけたせいで、中で働く人たちから苦情を言われているなどと答えるわけにはいかない。備品を破損したと始末書を書くことにもなりかねない。
「とにかく、今度またこういうことをされたら出るところに出るからな」
 おそらく彼がリーダー格なのだろう。最初に叫んだ作業員が、ねっとりと含みを持たせた口調で言った。
「あのう、一つ伺ってもいいですか?」
 それまで黙って何やら考え込んでいた砂原がふいに口を挟んだ。
「おい砂原。余計なことを言うんじゃない」
 井塚が慌てて砂原の言葉を遮った。
「失礼いたしました。部下はまだ事情がわかっておりませんので」
「別にいいさ。なんだよ聞きたいことって」
 リーダー男は顎をしゃくり上げた。
 砂原はルーペに顔を近づけた。
「さっき、井塚さんのパソコンが突然動かなくなったのはどうしてなんですか?」
「え?」
 それまでずっと男の顔に浮かんでいたニヤニヤ笑いが消えた。
「だって、みなさんが動かしているんですよね?」
 いくら小さいとはいえ、作業員たちが一斉にざわついたのは井塚にもはっきりとわかった。首をキョロキョロさせる者、頭を掻き出す者、互いに顔を見合わせる者。みんなあきらかに動揺している。
「それがお仕事なんですよね?」
「さあ、何のことだかわかんねぇな」
 男は作業服のポケットに両手を突っ込むと、ルーペから顔を背けた。

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