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出演料

 三年生の教室は校舎の四階にあって、窓際の席から遠くを眺めると桜の木が花を一斉に咲かせているのが目に入った。いつもの年よりずいぶん遅く咲いた桜は綿飴のようにふわふわとした塊になっている。
 始業十分前のチャイムが鳴った。
 ざわめいていた教室が一瞬ふっと静かになったあと、さっきよりも音量を落とした話し声が教室の中にゆっくりと広がっていく。
 里桜は机の上に教科書とノートを重ねて置き、その上に筆箱を乗せた。
 開けた窓から流れ込む風は磯と埃の混ざった匂いがしている。夏の匂いだった。
 もう一度窓の外を見た。桜並木の手前にあるグラウンドになんとなく目をやる。
 朝の練習を終えた野球部の男子たちが制服のボタンを留めながら校舎に向かって慌てて走り出していた。
 人の声。鳥の鳴き声。遠くを走る列車の音。木々の間を抜ける風の音。
 どんどん世界が遠ざかっていくような気がした。はっきりと目に見えているのに何もかもがぼんやりとしているようで、自分がここにいるのかどうかもわからない。なんだか夢の中にいるような奇妙な感覚だった。
「三葉さん」
 後ろの席からふいに声をかけられて里桜はハッと我に返った。
 話しかけてきたのは天豊だった。成績はいいし見た目もそれなりにカッコいいのだが、ときおり奇妙なことを口走るので周りからは変わり者だと思われていたし実際に変わり者だった。
 去年告白されて振ったのに今年同じクラスになってしまったので里桜としてはなんとも気まずかった。しかも席が前後なのだ。配布物を前から後ろへ順に回したり提出物を集めたりするたびに、どうしても顔を合わせることになる。
 もっとも天豊はまるで気にしていないどころか、あまりにも平然と話しかけてくるものだから、だんだん告白されたこと自体がなかったように思えてくる。
「ねえ、三葉さん」
「何?」
 グラウンドに目をやったまま里桜はほんの少しだけ顔を後ろに向けた。
「昨日さ、三葉さんが俺の夢に出てきたんだよ」
 得意げな口調だった。
「夢に?」
「そう。出てきたんだ」
「何よそれ、ちょっとやめてよ」
 里桜はぎゅっと眉を寄せて上半身を後ろに向けた。
「勝手に人を出さないでよ」
「だって出てきたんだからしょうがないだろ」
 天豊は寝癖だらけの髪に指を差し込んで引っ張った。
「しょうがなくない!」
 そう言って天豊を睨む。よりによって天豊の夢に出るなんて。
「でへへ」
 睨まれているのに天豊は嬉しそうだった。
 風に揺れたカーテンが二人の間にふわりと割り込む。
「今度勝手に出したら、出演料もらうからね」
「えー、出演料なんてひどい」
「勝手に出すのが悪いんでしょ」
 口を尖らせたまま里桜はくるりと正面に向き直って筆箱を手に取り、しばらく持ったあと再びノートの上に置いた。
 後ろからはまだ笑い声が聞こえている。
「ふうっ」
 里桜はわざとらしく大きな溜息をついた。
 夢に出てきたと言ったら相手がどう思うのかが天豊にはわからないのだ。成績は学年トップでもそういうデリカシーのなさがダメなのだ。
 里桜はもう一度溜息をついた。
 始業を知らせるチャイムが鳴り、先生が教室に入ってきた。

 その夜、ベッドに入った里桜は朝の会話を思い出していた。
 夢に出たと言われて文句を言ったものの、じつはそれほど嫌な感じはしていなかった。たぶん言ってきたのがほかの男子だったら、もっと気持ち悪く感じていたにちがいない。
 どうして平気だったんだろう。別に天豊のことは好きじゃない。ぜんぜん好きじゃない。だから振ったのだ。それなのにどうして。いや、やっぱりダメだ、あの人はおかしいのだ。
「ああ、もうわかんない」
 考えるのが面倒くさくなって里桜は布団を頭から被った。

 里桜は机の上に教科書とノートを重ねて置いたあと、その上にそっと筆箱を乗せた。
 開けた窓から流れ込む風は磯と埃の混ざった匂いがしている。夏の匂いだった。
 始業十分前のチャイムが鳴ると、教室の中のざわめきがしだいに収まっていく。 
 里桜はそっと首を回して桜並木の手前にあるグラウンドにぼんやりと目をやった。
 朝の練習を終えた野球部の男子たちが制服のボタンを留めながら校舎に向かって慌てて走り出す。
「三葉さん」
 後ろの席から天豊が声をかけてきた。クスクスと含み笑いの混じった声だった。
「何よ?」
 里桜は振り返った。また変なことを言ってくるのだろうか。
「はい」
 天豊は真っ白な封筒を里桜の胸元へすっと差し出した。
「何これ?」
 受け取った封筒の表裏を交互に見るが文字は何一つ書かれていない。ただワニの絵が入ったマスキングテープで封がしてあるだけだった。
「これって?」
 里桜は首を傾げた。
「出演料だよ」
「え?」
「夢に出てもらったから」
 里桜の目が丸くなった。
「でもさ、俺もちょっと考えたんだ」
 そう言って天豊は指に挟んだ髪を引っ張った。
「出演料?」
「そう。俺の夢に出てもらったから」

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