見出し画像

完璧な対策

 シューッと空気を吐き出す音を立てながら、左右からスライドしてきたドアが中央で静かにぶつかる。閉まりきる直前に一度速度が急に遅くなって、そこからぴったりと閉まり切るまでの間がなぜか能賀は好きだった。
 もちろんどれほどきっちり閉じられたドアも顕微鏡で見れば隙間だらけだから、厳密には完璧とは言えないのだが、能雅は顕微鏡を持ち歩いているわけでもないし、そこまで考えているわけでもないから構わない。
 ドアの閉まる様子をたっぷり味わってから体の向きをくるりと変えたところで、まだ宅羽が車両内に残っていることに気づいた。
「あれ? 課長って今の駅じゃなかったんですか」
 天井から降りてくる空調の風は微かに刺激的な香りを含んでいるようで、能賀はふと夏のプールを思い出した。あの塩素の香りは二十五メートルを泳ぎ切ることのできなかった苦い記憶を伴って何時までも鼻の奥に残っている。
「家ね、ちょっとしたリフォームをしたの」
 宅羽は困惑と照れの混じった微妙な表情で言った。都心からほど近い場所に小さいながらも庭つきの戸建てを持っていることは、どうしたって周囲から妬みの対象になりかねないから、できるだけ自慢に聞こえないようにと気を遣っているのだ。
「例のご自宅をですか?」
「そう、それで帰れなくて」
 しばらく隣町に間借りすることになったのだという。
「ああああ、なるほど。それじゃ、リフォームが終わるまでそちらに?」
 それには答えず、宅羽はゆっくりと首を斜めに傾けた。
 ガタン。ガタン。ガタン。ガタン。
 一定のリズムを保ちながら列車は高架を滑っていく。
「ほら、うちって昔、空き巣に入られたじゃない」
 窓の外を流れる夜景に視線をやりながらぼんやりした口調で宅羽は言った。
「ああああ、ありました、ありましたね、そういうことも」
「それでね」
 宅羽はそこで顔の向きを変え、能雅をまっすぐに見た。あまりにもまっすぐ能雅の目を見るものだから、能雅は無駄にドギマギした。
「もう絶対に泥棒が入って来られないようにってお願いしたの」
「絶対にですか?」
「うん。もう完璧にって」
「いいじゃないですか。蟻の子一匹入れない防御態勢。水も漏らさぬ完璧な防犯対策。大事なことですよ」
 能雅は大げさにうなずいた。
「それがね、そうしたら本当に誰も入れなくなっちゃったの」
 ガッタン。カーブに差し掛かった列車が金属の軋む音を立てて大きく揺れた。家電量販店と居酒屋チェーンの派手なネオンサインが遠くでゆっくりと弧を描く。
「誰も、ですか?」
「そう、誰も。窓もドアもなくしたから」
「え?」
「ほら、だって完璧だから」
 窓もドアもない家。入り口のない家。どこまでも壁に覆われているだけの家。能雅は目の前のドアをもう一度見た。ぴったりと閉じたれたドアはいくら列車が揺れても開くこと急にはない。それでもこのドアは再び開くことができる。
「確かに完璧ですね」
「うん。だからリフォームはとっくに終わってるんだけど、どうやっても家に入れないの」
 それでしかたなく家族で間借りをしているのだ。
「壁を壊せば入れるんだけどね」
 誰かが窓を開けたらしい。生ぬるい空気が空調の冷気を押しやるように車内へ流れ込んでくる。やがてプールの香りは油と炭の香りに置き換わった。
 ガタン。ガッタン。ガッターン。
 それまで一定に保たれていたリズムがしだいに遅くなり始めた。流れる夜景もゆっくりになり、高架近くにある看板の文字もはっきり読めるようになってくる。
「あ、着きましたね」
 列車がゆっくりと停止した。止まった瞬間、それまで前方へ引っ張られていた体が急に解き放たれて軽く後ろ側へ傾く。
 駅名のアナウンスと同時に、シューッと空気を吐き出す音を立てながらドアが開く。
「それじゃね。お疲れさま、また来週」
 宅羽は胸の前で小さく手を振って、車両を降りていった。

 その週末はひどい雨で、能雅は家からほとんど出ないまま過ごすことになった。
 明けた月曜も朝方にはまだわずかに雨が残っていたものの、午後からは晴れるとの予報だったので、能雅は傘を差さずに出かけたのだった。
 出社して机の上を整えていると、すっと後ろに人影が差した。振り返ると予想通り宅羽課長がやけに嬉しそうな顔をして立っている。
「おはようございます」
「あのね」
 そう言って宅羽は声を潜めた。
「リフォームしたって言ったでしょ?」
「ええ」
 なぜ声を潜めるのかと能雅は怪訝に思いながら頷いた。

ここから先は

414字
この記事のみ ¥ 100

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?