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正式なポーズ

illustrated by スミタ2022 @good_god_gold

 帰宅すると玄関ドアの前に荷物が置かれていた。たいして大きくない封筒なのだからポストに入れておけばいいのに、何故かわからないがわざわざ置き配にしてあるのは業者のこだわりなのだろう。
 井塚は無機質なラベルの貼られた茶色い封筒を拾いあげた。
「ああ、あれか」
 思っていたよりもずいぶんと軽い。
 部屋に入ると茶封筒の口を引き破るようにして中身を取り出した。印刷された小さな納品書と薄いポリ袋に入った一枚のDVD。てっきり動画の配信元を記した二次元バーコードか、少なくともメモリ媒体が入っていると思っていたが、まさかのDVDである。
 うちにはプレーヤーがあるからまだいいが、もうDVDなんてあまり使われていないんじゃないだろうか。プレーヤーがなかったらどうするつもりなのか。
 ぶつぶつ文句を口にしながら、井塚はテレビを点け、銀色に光る円盤をプレーヤーに入れた。制作会社のロゴマークが表示されたあと、映し出されたタイトルを女声がたどたどしい棒読みで読み上げた。
『いまさらのビジネスマナー講座』
 井塚はいわゆるビジネスマナーをきちんと学んでいない。挨拶にせよ、電話の応対にせよ、名刺の渡し方にせよ、先輩たちの仕草を見よう見まねで身に付けただけだから、心の底ではどうも自信を持てないままでいる。そろそろ昇進する可能性もあるし、そうなると新人の指導をすることだってあるあろうから、ここらで一度しっかりビジネスマナーを学んでおこうと考えたのが先月のことで、たまたま見かけた通信講座に申しこみ、そのまますっかり忘れていたが、ようやく届いたのがこのDVDなのだ。
 井塚は椅子を引き寄せ、テレビの前に腰を下ろした。とりあえずどんなものなのか、最初の講座だけでも見てみよう。
 しばらくするとタイトルが消え、画面に初老の男性が現れた。どこかで見たことのある男性だが、何者かはよくわからない。
「ビジネスには基本的ないくつかの重要ポーズがあります」
 男性は嗄れた声でカメラに向かってこれまたたどたどしい口調で話し始めた。明らかに目の前にある何かを読んでいるようで、視線がわずかにカメラから外れている。
 いったいこの男性が何者なのか。どういう立場でビジネスマナーを教えるのか。井塚は首を傾げたが、まったく紹介がないまま、いきなり内容の解説が始まった。
「さて、これからご紹介するポーズは、職場生活の様々な局面で、あるいは接待の席で必ず必要になります、それでは、まずこちらをごらん下さい」
 画面が切り替わり、体操用の白いジャージで上下を固めた男女が映し出された。二人ともすらりとした体型で、女性は正面を、男性は横を向いている。
——まずは腰をかがめましょう。このとき、膝のバネを上手く使って腰の位置が低くなるように意識します——
 二人は軽く腰をかがめ、中腰になった。そうして中腰になった状態で上半身をゆっくりと前に傾けていく。
——そのまま上半身を前方に傾けますが、この角度は大きくても小さくてもいけません。角度が小さいと傲慢な印象を与えますし、大きすぎると謝罪をしているように見えてしまいます——
 中腰のまま上半身を倒した二人は、まるで落ちている物を拾うような格好になった。 
——上半身の角度は三十度から四十五度までに収めます——
 いったい何のポーズなのか、これのどこがビジネスマナーなのか、今のところまるでわからない。
——上半身を適切な角度に傾けながらも、顔はうつむかないように気をつけましょう。まっすぐ正面を見る必要はありませんが、できるだけ顔を上げるようにします——
 二人の姿勢が、これから滑走するスキージャンプの選手のような形に変わった。
——初めは大変ですが、すぐに慣れるので安心して下さい——
 画面の端から解説の男性が入って来た。
——このポーズの基本は腰と頭の低さです——
 そう言いながらぴたりと静止した体操着の二人のすぐ側に立つ。
——ただし、謝罪するわけではありませんし、腰を低くするからといって、へりくだっているわけでもありませんから、誤解を招かないよう、高さや角度には十分な注意が必要になります——
 先端に手の模型がついた長い指示棒で、男女の頭を腰を指し示した。
——この高さと角度。最初は難しく感じるかも知れませんが、練習すれば誰でも身に付けることができますから、諦めずに毎日コツコツと繰り返しましょう——
 男性はカメラに向かって一礼をすると再び、画面の端へ消えていった。
——続いては手です——
 スキージャンプの格好をした二人は、片手をすっと顔のすぐ近くに持ち上げた。
——顔の前のやや低い位置に片手を立てて出しますが、このとき、手だけを上げるのではなく、肩から腕全体を持ち上げるようにしましょう——
 二人は一度手を下ろし、解説の通り一度肩をぐっと高く持ち上げてから、再び片手を顔の前に置き直した。
——肩が持ち上がることで相対的に頭の位置が低くなるため、頭の低さを効果的に演出することができるのです——
 なるほど。肩を持ち上げれば頭が高いと思われずにすむわけか。井塚は大きく頷いた。椅子から離れ、自分も画面を見ながらテレビの前で中腰になって片手を前に出す。
——さて、片手の位置が決まったら、その手を軽く前後に揺するのと同時に、頭を軽く手の側へ曲げましょう。右手を出している場合は右側へ、左手を出している場合は左側です——
 ピロロローン。
 不意に、画面からチャイム音が鳴った。
——先生、どちら側の手を出すかはどうやって決まるのでしょうか?——
 最初にタイトルを読み上げていた女声が、たどたどしい口調で質問をする。
「それはとてもいい質問ですね」
 画面の右下に小さな枠が現れた。枠の中に男性がいる。
「このポーズは、ポーズを示す相手が自分の右側にいるときには右手を、左側にいるときには左手を出すのが基本です」
 体操着の男女がすっと直立したあと、右手を出して右側を向き、いちど直立姿勢に戻ったあと、こんどは左手を出して左側に顔を向けた。
「このように、ポースを示す相手には、手のひらではなく、手の甲を見せます」
「もちろん、状況によっては反対側の手を出しても構いませんが、基本は手の甲を見せることを心がけて下さい」
——わかりました。ありがとうございます——
 井塚も立ったまま右手と左手を交互に出して、顔をそれぞれの側に向けてみた。どちら側を見るときも左手を出しているほうが首の動きは楽に感じるが、きっとこれも練習で上手くなるのだろう。
——それではこのポーズの最後です。決まりのセリフを口にしましょう——

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