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一人前などない

 二人ぶんの大きな荷物を抱えて息を切らしている青谷凪亮子を後目に、丸古三千男はさっさと足早に歩いて行く。担当編集者を自分の部下や召し使いにしか思っていないのだ。年配の作家に特有の悪癖なのだが、本人はまったく気にもしていないからどうしようもない。
「昔はどうだったか知らんが、もはや風情も何もないな」
 名前こそ小町だの銀座だのと謳ってはいるものの、かつては賑やかであっただろう商店街は駅から離れているせいか、もうすっかり寂れきっていた。古びた灰色の建物から張り出しているビニール製の軒テントには埃が積もって薄汚れているし、雑居ビルの壁にずらりと縦に並んだ小さな看板は、いくつかのスナックと小料理屋だけを残して、あとは真っ白になっている。
「本当にこの道でいいのか?」
「ええ、この先ですよ」
 不審な顔で振り返った丸古に秘書の渡師菱代が大きくうなずいた。カジュアルな服装に小さなバックパック一つだけといった格好は、いかにも旅慣れているように見える。
 渡師に促されるまま、しばらく商店街の中を進むと、やがて赤茶色のレンガに格子の引き戸をはめ込んだ、なんともちぐはぐな建物が現れた。引き戸の左右にはビール会社の名が入った黄色い幟が立てられている。戸口には狸の置物がどっしりと腰を下ろしていた。
「ここです」
 菱代が格子戸の脇にある店の看板を指さす。
「おお、ここか。たしかに、わんこと書いてあるな」
 ふううう。ようやく二人に追いついた亮子は、ドサリと大きな音を立てて荷物を地面に下ろし、腰を伸ばすようにしながら大きく深呼吸をした。なかなか息が整わないようだ。
「先生、本当に、挑戦を、される、おつもり、なんでしょうか?」
 切れ切れの息でそう尋ねた。
「あたりまえじゃないか。花巻や盛岡に来たらわんこに決まってるだろう」
 丸古は胸を張った。
「私はそんなに食べられそうにありません」
「青谷凪さん、大丈夫よ。私だってたぶん無理だから、普通のお食事にするつもり」
「何を言っているのだ。いいかね、せっかくの岩手なのだぞ。わんこ蕎麦を食べずして何を食べると言うのだ」
 丸古は格子戸に手をかけて、一気に引いた。
 見た目の古さからは想像のつかないガラガラとした小気味よい音を立てて、扉が横へスライドする。
「ごめんください」
「はあい、ただいま」
 店の奥から元気な女性の声が聞こえた。
 丸古は一歩店に入るとキョロキョロと店内を見回した。
「何名様ですか?」
「三人です」
 丸古に代わって青谷凪が答えたが、丸古は店員の質問さえ耳に入っていないようだった。
 案内された席についてからも丸古は妙に落ち着かない。首を伸ばして厨房を覗き込もうとしたり、隣のテーブルの下に視線をやったりと、忙しなく体を動かしている。
「いらっしゃいませ。本日のお勧めは、こちらの夏野菜の天ぷら御膳です。それとこちらの夏野菜の天ぷら、あ、スダの、あ、盛りで、盛りの」
 おそらく地元の高校生がアルバイトをしているのだろう。店の制服が華奢な体には大きすぎるようで、肩も袖口も布があまっている。締め慣れないネクタイも不格好で、辿々しい口調と相まって好感を持てる。
「スダ?」
 菱代が首を傾げた。
「あ、はい。すみません。本日のお勧めは、こちらの夏野菜の天ぷら御膳です。それとこちらのスダチの盛り蕎麦です」
 おそらくお勧めのメニューを丸ごと暗記しているのだろう。頭から言い直すと、今度はするすると淀みなくセリフが出てきた。
「スダチのお蕎麦かあ、美味しそう」
 亮子の目がキラと輝く。さっきまで二人分の荷物を持って息も絶え絶えだったことは、すっかり忘れたようだった。
「いやいやいや、わんこだよ、わんこ。わんこ蕎麦だ。あるだろ?」
「え、あ、はい。あります」
 彼女は丸古の勢いにたじろぎながらもメニューの一角を指差した。
「じゃあ、私はわんこだ。わんこを一人前」
「あの、それはちょっと」
 高校生は困った顔になった。
「なんだ、わんこは出せないと言うのか。ここにあるじゃないか、ほら」
 丸古はさっき彼女が指差したメニューの一角を自分でも指差して目をギョロつかせた。
「どうしてわんこが出せないのだッ。私はわんこを食べに来たのだぞッ」
 自分で言いながら興奮したのか、丸古は顔を真っ赤にしながら声を張り上げた。
「いえ、わんこは一人前というのがなくて」
「それはそうですよね」
 菱代が当然だといった口調で答える。わんこ蕎麦の仕組みから考えれば、一人前などといった区切りがないのはあたりまえだ。
「あ、そっか。だってわんこですもんね。ほら、先生。わんこですから」
 亮子も理解したらしく、すぐに菱代に同意した。少しの間、何か考えこんでいた丸古もようやくそのおかしさに気づいたらしい。
「あ、そうかも。いやいや、これは私が悪かった。そりゃそうだな。わんこってのは、たしかにそういうものじゃないわな。うむ、わかった。ともかく私はわんこを頼む」
「私はスダチのお蕎麦で」
「私もスダチにします」
「少々お待ちください」
 アルバイトの高校生は畏まった態度で深々と頭を下げると、伝票を持って厨房へ去って行った。
「いやいや、こんなに寂れた場所にもちゃんとした店があるんだな」
「昔はこのあたりもずいぶん栄えていたそうですし、ここは人気店ですからね」
 二人の会話を聞きながら、亮子はスマートフォンの画面を覗き込んでいる。そんな亮子を見て、全国どこにいても仕事ができるのも考えものだなと丸古はこっそり首を振った。
「お待たせしました」
 恰幅のよい女性がワゴンに乗せた盆を運んできた。その後ろから、大量の椀が載ったワゴンを男性が押してくる。
「スダチの盛りがお二つと、わんこですね」
 枯れているがよく通る大きな声を出しながら、女性は盆をテーブルに乗せていく。
「それじゃ、こちらがわんこです」
 丸古の前に小さな器が置かれた。器の中では一口サイズの蕎麦が丸まっている。
「これは?」
「わんこです。お客様がお食事を始められたらスタートしますので」
「えーっと、犬は?」
 丸古はだらしなく口を開いたまま聞いた。
「は?」
「犬が持ってくるんじゃないのか?」
「いいえ」
「だって、わんこだろ? わんこ蕎麦だろ? なんで犬がいないんだ?」
 丸古は向かい側に座る亮子と菱代を交互に見た。二人ともキョトンとした顔で丸古を見ている。
「いったい、どうなっている?」
「先生。わんこ蕎麦に犬は関係ありませんよ」
 亮子が無表情のまま言う。丸古の言動が冗談なのか本気なのかがわからないのだ。
「そんなはずはないッ」
 丸古はガタと音を立てて立ち上がった。
「いるはずだ。犬がッ。蕎麦を持ってくる犬がッ」
 そう言って、店の中をウロウロし始めた。テーブルの下を覗き込み、カーテンを捲り、厨房にまで入り込もうとする。
「いないじゃないか。なんでいないんだ。犬は、犬はどうしたッ」
 菱代と亮子は互いに顔を見合わせた。先生は、いったいどこでそんなデタラメを吹き込まれたのだろうか。
「さあ、ワンちゃんおいで。いい子だからこっちへおいで」
 どこに言うわけでもなく丸古は声をかけて口笛を吹いたが、もちろん犬は現れない。
「ワン、ワンッ」
 ついに丸古は両手を地面について大声で吠え始めた。自分が犬のフリをすれば隠れている犬が出てくると考えたようだった。

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