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どこからでも切れます

 薬罐の底がカンカンと高い音を立てながら細かく振動すると、やがて緩んだ蓋の隙間から小さな泡の粒が噴き出し始めた。注ぎ口から立ち上る白い湯気が給湯室に広がる。
 もうすぐ沸騰するというところで、古庄俊夫はコンロに手を伸ばして火を止めた。
 すぐ隣では天豊建萌が食料棚の戸を開き、中を覗き込んでいる。
「やっぱりないや」
 がっかりした口調で振り返った建萌は、両手にカップ麺を一つずつ持っていた。
「カップ麺しかありませんよ」
「おお。袋麺は誰か食べちゃったのか」
 俊夫は振り向かずに答える。
「先週、残業したときにはあったんですけどね」
 建萌は手に持ったカップ麺を軽く振りながら、キッチン台の上にきちんと並べて置いた。
「そりゃ、先週じゃなあ。やっぱりみんな袋麺が好きなんだな」
「古庄さん、なんで火、止めたんですか?」
「カップ麺なんだろ。先にいろいろやることあるじゃん」
 そう。最近のカップ麺はやたらと調理方法がうるさいのだ。この袋は蓋の上で温めろだの、こっちの粉は先に入れろだの、この油は食べる直前に足せだのとやけに注意書きが多く、言われるままにバタバタやっていると、せっかく沸かした湯が冷めてしまうのだ。
「だから、ぜんぶ準備してから、沸騰させて注ぐんだよ」
「なんだか面倒ですよね。カップ麺なのに」
 アルミ蒸着された蓋を剥がし、建萌はカップの中から次々に細かな袋を取り出していく。
「見てくださいよ。スープも二種類あるんですよ。先に入れるのと後に入れるの。もう意味がわかりませんよ」
「競争を繰り返しているうちに、手軽に食べられるっていうカップ麺の立ち位置を見失ったんだな、きっと」
「出た。出ましたよ、ほらこれ」
 建萌は、黄色い調味油の入った小さな袋を俊夫に見せた。半透明をした袋の端には赤い小さな文字で「こちら側のどこからでも簡単に切れます」と書かれている。
「あっ」
 目の端で袋の文字を読んだ俊夫は思わず声を上げた。
「それが入ってたか。切れるってやつな。それ、気をつけないとダメだぞ」
「わかっていますって。もう何度も失敗してますから」
 建萌はニヤリとしながら肩をすくめた。
 事前に入れるべきものをすべてカップに入れてから再びコンロに火を点けると、あっという間に薬罐の中の湯が沸騰し始める。
「よし、沸いたぞ」
 俊夫は薬罐をコンロから下ろし、蓋が半分開かれた状態のカップに湯を一気に注ぎ入れた。乾燥した麺が水分を含んで元の姿へ戻っていくときのパリパリとした微かな音が鳴る。
 湯がたっぷり注がれたところで建萌がカップ麺の蓋を戻し、その上に液体スープの入った小袋を乗せた。説明通りにつくるには、これを蓋の上で温めなければならないのだ。
 二人はカップ麺を持って給湯室を出ると休憩コーナーのテーブルに腰を落ち着かせた。サーバーでグラスに水を入れ箸を並べる。あとは待つだけだ。
「古庄さんってずっと本社なんですか?」
 カップ麺の横に置いたスマートフォンのタイマー画面を眺めながら建萌が聞いた。
「そう。でもたぶん来年あたりは工場に行くんじゃないかな」
「俺も工場がいいです」
「どうしてさ?」
「東京、苦手なんですよ。人が多いし」
 そう言って建萌は首の後ろをボリボリと掻いた。
「ああ、なんとなくその気持ちはわかるなあ」
 俊夫は組んだ両手に顎を乗せて窓へ目をやった。もうすっかり暗くなっているせいで、外の景色は見えず、その代わりにカップ麺のできあがりをぼんやりと待つ二人の姿が窓ガラスにはっきりと映っている。
 ズンビキューンドドビッタタンズキュイーンタンビッタンドンビッタタンドンドドドン。
 突然、激しいテクノミュージックが休憩コーナーに響き渡った。
「四分経ちましたあ」
 建萌は素早く蓋を剥がし、箸でグルグルとカップの中をかき混ぜた。
「で、これですね」
 油の入ったさっきの小さな袋を指先で摘まみ上げる。
「おい、気をつけろよ」
 俊夫は声を大きくした。
「こっち側はどこからでも切れるんだからな」
 手元にある自分の袋の端を指差す。
「わかってますって」
 建萌はそう言いながら「こちら側のどこからでも簡単に切れます」と赤い文字で書かれている部分を両手の指先で摘まんだ。そのまま力を込めて袋を破ろうとする。思わず俊夫の目が丸くなった。
「おい、ちょっと待て。よせ!」
 叫びながら建萌を止めようとしたが間に合わなかった。
 プチ。小さな音がして袋が爆ぜた。

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