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うめ祭り

 大事な話があるからすぐに帰ってきてほしいと祖母から拓也に連絡があったのは、大学の夏休みも終わりに近づいて、秋からの就職活動に向けてそろそろ生活を立て直さなきゃいけないなと思い始めた矢先のことだった。
 どうしたのか、何があったのかとしつこく聞いても、電話口の祖母は頑なに答えを拒む。こうなったとき祖母の頑固さはよく知っているので、拓也はついに根負けして帰ることにした。
 東京から特急と在来線を乗り継いで四時間半、さらにそこからバスで四十分。ようやく帰り着いた故郷は相変わらず何もないままで、どうしてここを出たいと思ったのかを拓也はあらためて思い出した。
 村を取り囲む山はたいした標高ではないが、それでも中途半端な盆地を作るには十分だった。薄い皿の底のような土地のほとんどが田畑で、人の住処は北側の山裾に集まっている。小山の中腹にも僅かな棚田が切り開かれ、その端にぽつんと小さな小屋がいくつか建てられていた。
 古びたコンクリートに覆われた役場は二階建てで、共済への加入を勧める大きな垂れ幕が二階のベランダから吊されている。バスの中から見る限り、人の出入りはまったくなくて、ここでは何も行われていないことを表しているようだった。
「あれ?」
 バス停を降りた拓也は首をひねった。
 真新しい白い建物が二つ、畑の中に置かれた箱のように並んで建てられ、その向こう側ではどこまでも続くソーラーパネルがギラギラと太陽の光を跳ね返している。正月に帰ったときには、あんなものはなかったから、たった半年の間にできたらしい。旧く面倒な決まりごとだらけの村も、いや、だからこそ、こうした時流の流れには逆らえないのだろう。
 小山の上には巨大な入道雲がかかっていた。東側の山向こうには海が広がっているのだ。この小さな山さえなければ、村は今とはまるで違っていただろう。
 川沿いの土手をゆっくり歩きながら、拓也は村を見渡した。ほんのりと色づいた黄色い畑の中を青色のコンバインがゆっくりと走り、その後ろを犬が追いかけていた。
 拓也は苦笑いをした。本当に何もないのだ。何もないし何も起こらない。ここでは永遠の退屈だけが繰り返されているのだった。若者たちは中学を卒業するとみんな村を出て、ほとんどは戻ってこないから、年々年寄りばかりになっていく。
 もともと拓也は横浜で生まれたのだが、幼い時分に両親をなくしたため、ここで祖父母に育てられたのだった。横浜時代のことはほとんど記憶にない。拓也にとって故郷とはこの村だし、保護者とは祖父母のことだった。
「ただいま」
 門扉の外から、箒で玄関口を掃いている祖母に声をかけると、祖母はびっくりした顔でしばらく拓也を見てから
「ああ、タクちゃん」
 と、独り言のようにつぶやいた。
「うん。帰ってきたよ」
 祖父母と会うのは正月以来だから半年ぶりなのだが、その間に祖母はずいぶんと年老いたように見えた。年老いただけでなく、なんだか体も小さくなったようで、玄関口にぶら下げられている大きな蓑に全身がすっぽりと包まれてしまいそうだった。
「ありがとね、急に」
 祖母はそう言いながら急須の茶を湯呑みに注いだ。
 台所に置かれた黒檀の食卓は拓也が子供のころからずっと同じもので、記憶の中ではもっと大きな印象を持っていたが、こうやってみると大人が四人席に着けば隙間がなくなるほど小ぶりなものだった。
「いいよ。まだ夏休みだし」
 拓也は笑顔で答える。何よりもこうやって呼ばれて帰れば、確実に小遣いがもらえるはずなのだ。奨学金とアルバイトで生活している拓也にとって、臨時収入の可能性を逃すわけにはいかなかった。
「それで話って何?」
 聞きながら拓也は卓上の豆菓子を指先でつまんで口に放り込んだ。思いがけず懐かしい味が口の中に広がっていく。
「あ、これ。これって昔よく食べたよね」
「ほら、丸古さんところの豆菓子よ。タクちゃん好きだったから」
「ああ丸古食品か。このお菓子、すっかり忘れてたなあ」
「なんでも忘れていくんよね」
 祖母はしばらく手元の湯呑みを見つめたあと、やがてよいしょと声を出して立ち上がり、流し台の前に立った。
「別においしくはないんだけど、なんだか食べちゃうよね、これ」
 拓也は次々に豆菓子を口に入れる。
「昔からそうでしょ」
「だったっけ」
「少しだけにしておきなさい。あんまり食べ過ぎると夕飯が食べられんくなるからね」
「わかったよ」
 流し台の向こうに置かれたラジオから人の声が聞こえてくるが、ボリュームが小さくて何を言っているのかはわからなかった。これは料理場に立つ祖母だけが楽しむものなのだ。
 壁にはよくわからないお守りが張られ、ダイヤル式の黒電話の横には氏神様の手形が飾られている。ここへ拓也がやってきた日から、ほとんど変わらない暮らしが今も続いているのだ。
「夕飯は早めにしようかね」
「爺ちゃんは?」
 拓也は祖母の背中に訪ねた。
「畑?」
 胡瓜を切り始めていた祖母は包丁を握る手を止めて静かに振り返った。
「夕飯の時にね」
「大事な話ってそれ?」
 祖母は目だけで優しく答えると、再びまな板の胡瓜に向かった。やっぱり二回りほど体が小さくなったようで、その後ろ姿を見ているうちに拓也は胸の奥がチリチリと痛むような気がした。
 十八まで拓也が暮らしていた二階の部屋は、ここを出たときのまま残されていて、何もかもが新しいまま、同時に何もかもが古びていた。壁のポスターは日に焼けて色あせ、ナイフで切りつけた机の傷はくすんで見えなくなっていた。窓を開けると暑い湿気を含んだ風が部屋の中へ流れ込み、拓也は腹立たしさと懐かしさの混じった不思議な感覚に見舞われた。
 遠くの畑がゆらゆらと揺らめいて見えるのは、例のソーラーパネルの跳ね返す熱が蜃気楼を起こしているからだろう。山に視線を移すと、棚田の隅にある小屋からのんびりと白い煙が立ち上っているのが目に入った。
 棚田の隅でチラチラと何かが動いていたが、遠すぎて人なのか機械なのかはわからなかった。拓也は指先で目頭をこすった。きっと幼いころなら見えていたはずだ。大学へ進学してから急に視力が落ちたようで、このぶんなら、いずれ眼鏡がいるようになるのだろう。眼鏡をかけた自分の顔はまだ想像がつかなかった。
 
 夕食前に祖父は帰ってきた。全身が泥だらけになっている。
「爺ちゃん、どうしたの?すごい泥じゃん」
「まあな」
 まず泥を落とすからと、祖父は玄関を上がらずそのまま裏の勝手口から風呂場へ向かった。
 いつもは朗らかな祖父は畑仕事がきつかったのか妙に無口だった。ただ無口なだけではなく、どこか緊張しているようで、拓也はそれが気になった。
 夕食のときにねと祖母に言われた話はなかなか話題に上らず、だからといって拓也から話を切り出すのもおかしいので、食事中は当たり障りのない会話をするばかりになった。
 周囲にあるのは低い山ばかりだとはいえ、盆地は盆地だから、山の向こうに日が隠れると一気に暗くなっていく。まだ八月なのにさっさと訪れる夜が村を包み込むと気温も下がって、虫が鳴き始める。まもなくやってくる秋の気配がここにはすでに溢れていた。
 旧い照明器具はスイッチを入れるとパチリと大きな音を立て、柔らかな白熱電球の光が台所にぼんやりとした陰を落とした。
「ふう」
 淹れ直した熱い茶を一口飲んでから、祖父は大きなため息を吐いた。湯呑みを置き、壁のカレンダーを見やったあと、ゆっくりと拓也に顔を向けた。
「拓也はいくつになったんだ?」
「二十一だよ」
「そうか。そりゃ俺も年をとるわけだな」
 あまり年齢を意識したことはなかったが、祖父母の家に引き取られたのが四つのときで、その数年後に祖父は還暦を迎えたわけだから、と拓也は指を折った。祖父はもう七十代後半になるはずだ。
「畑、きついんじゃないの?」
「いや、畑は大丈夫なんだがな」
 祖父はそう言って、もう一口茶を口に含んだ。
 洗い物を終えた祖母もようやく食卓についたものの、お茶のお代わりを淹れようかだの、お隣からもらった煎餅があっただのと忙しなく席を立ったり座ったりして、なんとも落ち着かなかった。
 大学での暮らしぶりや就職活動のあれこれを話し、プロ野球の話をしたあと、祖父の政治批判をひとしきり聞くと、もう夜もずいぶん更けていた。
「じゃあ、そろそろ寝るか」
 祖父が両膝に手を置いてのっそりと立ち上がる。
「ちょっとお父さん」
 祖母は食卓の上で両手を組み、静かに声を出した。そっと顔を上げて祖父と拓也を交互に見る。
「うむう」
 と、声にならない声を喉の奥で鳴らし、祖父は再び腰を下ろした。怒っているとも困っているとも区別のつかない複雑な顔つきのまま、煎餅の乗った小皿を手前に引き寄せた。
 拓也は祖父が話し出すのをじっと待っていたが、結局祖父は何も言わないまま煎餅を手に取って無造作に囓った。
 ガリと大きな音がした。
「堅いな」
 祖父は一口囓った煎餅を皿に戻した。
「年をとると堅い煎餅は無理になる」
 そう言ってから拓也の目を見た。
「いろんなもんが無理になるんだ」
 急に祖父の肩から力がすっと抜けたように見えた。
「そりゃそうだろ。それが年をとるってことなんだからさ」
 あまり実感のないまま拓也は答えた。祖父もまたずいぶんと小さくなったような気がした。たった半年の間に二人が急に老け込んだことに、拓也は言いようのない不安を覚えた。
 コツン。
 小さな音を立てて、祖母が湯呑みを置いた。
 天井の蛍光灯がジリジリと雑音を立てている。古びた壁に落ちる電灯の影は、たぶん何十年も変わっていない。拓也の鼻の奥に、なんとも説明のできない懐かしい香りが広がった。
 祖母が椅子を引き直した。
「タクちゃんは、うめ祭りは知ってるの?」
 拓也の顔をのぞき込むようにして聞く。
「聞いたことはあるよ」
 村にはいくつもの伝統的な風習があるが、中でも特に祭りは重要な行事で、毎年行われるものと数年おきに行われる例祭、そして数十年に一度行われる大祭祀がある。
「さすがに見たことはないけど」
 うめ祭りは特に重要な大祭祀の一つで、四十年近くかけて準備する必要があるため、拓也がまだ一度も見たことがないのも無理はなかった。
「今年なのよ。うめ祭り」
 意を決したような口調だった。
「え?そうなの?」
 拓也の目が丸くなった。普段、村のことはすっかり忘れているとはいえ、いくつかの大切な行事くらいは頭に多少入っている。けれども、うめ祭りが今年だなんてまったく知らなかった。
「そうなの」
 そう言ったところで祖母は沈黙した。何かを思い詰めたような目で、食卓に置いた自分の手をじっと見つめる。
「うめ祭り」
 拓也はぽつりと口に出してみた。毎年の祭とは違って、何十年もの準備が必要な大祭祀はどうも実感がわかない。そんなに大きな祭りがあるのなら役場に垂れ幕が出ていてもおかしくないし、村全体にもそれなりの気配があっていいものだが、ここまで拓也は何も感じていなかった。それどころか、いつもよりも静かなくらいだ。
 祖父は皿に戻した煎餅を再びつまみ上げた。文字でも書かれているように、煎餅をじっと見つめる。
「うちが祀頭になったんだわ」
 ぽつりと言った。言ってから煎餅を卓の上に置く。
「えっ?えええっ?」
 祭りを仕切る祀頭は、祭ごとに氏神様から指名されることになっている。一つの祭が終わるたびに新たな祀頭が選ばれて、次の祭の準備を始めるのだ。何年、何十年の間隔で開かれる大きな祭の場合には、親子二代にわたって祀頭を引き継ぐことさえあった。
「いろいろあってなあ」
「何で?だって、うめ祭りって大祭祀でしょ?そんなに急に祀頭になれるわけないじゃん。何十年前から準備しなきゃダメなやつでしょ?誰かが指名されていたんでしょ?」
「そうなんだけどな」
 祖父は目を瞑って鼻から静かに息を吐いた。
「もともと今年は平祭の年だったんだ」
「普通のやつだよね。屋台の出るやつ」
「うちは年寄り二人だから楽できるように、わざわざ秋祭りの祀頭を当ててくれていたんだけどな」
 祖父はぼんやり目を開けると壁のカレンダーに視線をやった。日本の山の写真が載っているだけの、何の特徴もない大判のカレンダーは、おそらく農協からもらったものだろう。
「流行病だとか大水だとか、あとは山火事とか、とにかく良くないことが続いているから今年は、急遽うめ祭りに変えると氏神様がおっしゃったんだわ」
 祖父の視線につられて拓也も壁のカレンダーをじっと見つめる。今週末の日付に太いペンで黒々とした丸がつけられていた。
「でもさ、うめ祭りならとっくに指名されている祀頭がいるはずじゃん。その家がやればいいわけでしょ」
「それがね、そのまままうちでうめ祭りの祀頭をやれって言われたの」
 祖母が困ったように首をそっと振る。
「うめ祭りの祀頭は、井塚のところだったんだけどな。井塚は知ってるな?」
「知らない」
 小さな村なのでほとんどは顔見知りのはずだが、拓也は聞いたことのない名だった。
「そうか。あれが亡くなったあと息子の匡が継ぐかと思ったんだが、息子は村を出て戻る気がないというもんだから、うめ祭りの祀頭がいなくなってしまったんだわ」
 拓也は内心でうなずいていた。井塚匡が帰らないと言う気持ちは痛いほどよくわかる。ここには何もない。ここでは何も起こらない。永遠の退屈に閉じ込められないためには、ここを出るしかないのだ。
「それで今年の祀頭がそのままうめ祭りに人を出すことになったんだ」
「そんなの無理だろ」
 思わず声が大きくなる。
「誰かと変わってもらおうよ」
「そりゃできねぇわな」
 祖父が怒ったような声を出した。
「氏神様がうちに当てたんだから、うちで出すしかねぇだろ」
「でもお父さん」
「うるさい。もう寝る」
 不機嫌そうな大声で祖母の声を遮ると、祖父は両手をパンッと食卓に叩きつけて立ち上がった。自分の湯呑みを流し台に置いて、台所から出るところで振り返る。
「とにかくうちからうめ祭りは出すよりほかねぇんだから」
 誰に向かって言うわけでなく、まるで自分に言い聞かせるかのようにそう言ってから、祖父はのっそり台所を出て行った。
 拓也は祖母に視線を戻した。祖母はぼんやりとした顔つきで、じっと目の前を見つめていた。ゆっくりと瞳は動いているものの、焦点はどこにもあっていなかった。
「爺ちゃんにうめ祭りなんて無理だよ」
 そっと声を掛けると祖母は我に返ったらしく、すうっと両手を伸ばして拓也の右手を包み込むように握った。
「それでも役目は役目だからって」
 祖母の目に薄らと光るものが浮かぶ。
「練習しているみたいなの」
「ああ、それであの泥」
 拓也はようやく納得がいった。全身を泥まみれにして帰ってきた祖父を見たとき、いつもの畑仕事にしては、やけにひどく汚れているなと思ったのだ。うめ祭りの練習ならば、汚れていたのもよくわかる。
「俺に大事な話があるって言ってたのはこのことなんだね」
「そうなの」
 祖母はためらいがちにうなずいた。
「わかった。できるかどうかわかんないけど、爺ちゃんを説得してみるよ」
「そうじゃないの、タクちゃん」

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