見出し画像

乗る人2

illustrated by スミタ2023 @good_god_gold

 神田から馬喰町へすっと抜けていく裏通りに並ぶいわゆる三軒長屋の一角で、朝からトントンと威勢良くなぐりを振るっていたのが、ここの長屋に暮らす男でございます。名は傅、屋号は甲斐寺だと本人は申しておりますが、本当のところはよくわかりません。
 さてこの男、たいして腕はよくありませんが、大家に「おいデンよ、いくらうっかり者のお前だって大工の端くれだ。雨漏りくらいは直せるだろう」と言われ、ついに渋々普請に取りかかった次第です。
 そろそろ十時になるというあたりで、裏庭の大きな石に腰を下ろしてかんなの刃研ぎをしながらキセルで一服やり始めました。
 職人の休憩は十時、三時と決まっておりますが、別にこれはサボっているわけじゃなくてですね、職人仕事ってぇのは、実際に体を動かす仕事のほかに、のみや鉋を整える段取りってものがあるそうで、この段取りを疎かにすると仕事がうまくいかない。二時間ばかり仕事をやったら段取りを二時間、これを朝の八時から繰り返すと、昼を挟んでちょうど十時と三時あたりで段取りに入ると。これがまあ、もちろん手は動かしてはおりますが、休憩と言えば休憩になるわけです。
 人の集中力は二時間以上は続かないからだとか、ちょうど朝昼夕の食事の中間だからだとか、まあ、あれこれ説はあるようですが、いずれにしても十時と三時にはちょいと一服するわけです。
 刃研ぎの手を止めたデンが、ふうっとタバコの煙を空に向かって噴き上げておりますところ、そこへ通りがかった一人の男の子。同じ長屋に住む俊哉が、見れば大きな巻紙を肩に担いでおります。
「おう、シュン坊。なにしてんだ。そんなでっかい紙を持って」
「なんだデン公かよ」
「なんだとはなんだ。それに大人に向かってデン公呼ばわりするとはふてぇガキだな」
「だってうっかり者のデン公だろ」
「おい、バカ言うんじゃねえよ。今日だって大家さんに頼まれて、こうやって雨漏りを直してるじゃねぇか。あっちのほうに置いてる板は、おめぇん家の雨漏りを直すためのもんだぞ」
「そっか。すげぇんだな……」
「そうだよ」
「……デン公は」
「おう、だからそのデン公ってのはやめろって。電気を大切にね、とか言い出しそうじゃねえか」
 文句を言いながらも、満更でもない顔つきになったデンを無視してシュンヤは通りの向こうで楽しそうに話し込んでいる若い娘たちをそっと指差します。
「ほら、あのお姉さんたち、さっきから、デン公のことをチラチラ見てるよ」
「本当か? 見てるようには見えねぇけどな」
「そんなの、わかるように見るわけないだろ。大人のくせにわかってないなあ」
「そうか。ま、そういうもんだな。そりゃまあ俺もいちおう手に職あるからな。その辺でブラブラしてる大店のボンボンとは体つきが違うってもんよ」
「ふーん」
「ふーんじゃねぇよ。まだおめぇには、そういう男と女の微妙なやりとりはわかんねぇんだよ。やっぱり女は逞しい男に惹かれるんだよ。シュン坊も体を鍛えな」
「そうなのかなあ」
「あたりめぇだろ。あの娘たちだって、みんなそうなんだよ」
と、得意げに言ってタバコをふかすデンをしばらく見ていたシュンヤ、肩に担いでいた巻紙を地面に置くと、いきなり娘たちの元へ駆け出しました。
「おいおいおい、ちょっとおめぇ何する気だ……って、行っちまいやがったよ」
 子供だから警戒されることもなく、シュンヤは娘たちと何やら話し込んでおります。シュンヤがこちらを指さして何かを言うと娘たちが、手を叩いて大喜び。
「いってぇ何の話をしてやがるだ。俺を見て笑ってやがる」
 訝しがるデンの元へ戻ってきたシュンヤ。
「あのお姉さんたち、勇敢な男の人が好きだわって言ってたよ」
「なんだそんなことか。俺は勇敢だぞ。そりゃもうかなり勇敢だぞ」
「で、これ」
 置いてあった巻紙を拾い上げたシュンヤが、するするするっと止め紐を解いて広げると、出てきたのは巨大な一枚の地図。
「こりゃどこの地図なんだ?」
「犬吠埼」
「なんでそんな地図を持ってんだ? シュン坊、おめぇ漁師にでもなりてぇのか?」
「ぜんぜん」
「なのに海の地図を持ってるのか? おめぇバカだろ?」
「うっかり者にバカって言われたくないよ」
「バカだからバカって言ったんだ」
 子供相手に大人気ないのがデンであります。
「おいら大きくなったら青海先生みたいになりたいんだ」
 長谷川青梅は江戸時代の地理学者でして、伊能忠敬より四十年以上も前に、日本中を歩いて地図をつくったのだそうです。正確さだけなく、その独特の筆致が評判になり、掛け軸に表装して床間に飾る者も出てくるほどの人気ぶり。
 あまり物を知らないデンも、さすがにそれくらいのことは知っているらしく、
「おいおいおいおい。これってまさか青梅先生の地図なのか? とんでもないお宝じゃねぇか」
と、腰を抜かさんばかりに声を張り上げる。
 もちろん金に換えられるものじゃありませんが、数十両、数百両になってもおかしくない貴重な品ですから当然のこと。
「あのお姉さんたちがね」
急に声を顰めたシュンヤにデンも声を小さくして
「なんだ? お姉さんたちがなんだ?」
「デン公は、この地図を踏めるかって」
「なんだって!?」
「踏む勇気はないだろうって。だからおいら言ってやったんだ。デン公は踏めるって」
「勝手なこと言うんじゃねぇよ。お宝を踏めるわけないだろ」
「えー、踏めないの? デン公なら平気で踏むよって言っちゃったのに」
 そう言ってシュンヤは妙に悲しげな顔つきに。大人たるもの、子供にこういう顔をさせるわけにはいきませんから、
「ようし、わかった、乗ってやろうじゃねぇか」
 男気を見せようと言うわけですな。
「本当?」
「ああ、見てろよ」
 ささと下駄を脱ぎ捨てたデン、地面に広げたお宝の地図へおっかなびっくり片足を乗せ、さらにもう一方の足を乗せ、ついには両足で乗っての仁王立ち。
「どうだ? 乗ったぞ」
「うん、乗ったね」
 シュンヤの顔がパッと明るくなります。通りの向こうにいる娘たちがキャッと笑い声を上げたのが、デンの耳にも届きました。
「ふふふふ、俺が何もわかってないと思ってただろ」
 地図の上に乗せた両足をぴたりと揃えたまま、デンはシュンヤに顔を向けてニヤリと笑う。
「え? 何が?」
「とぼけるんじゃねぇ、おい、シュン坊。おめぇ、あの子たちと何話した?」
 そう言って、ちらりと視線を娘たちに向けるデン。
「俺が地図に乗ったら、ほらあいつ図に乗ったぞとか何とか言って、みんなで嗤おうと、そういう魂胆だろ?」
 デンに詰め寄られた少年は激しく首を左右に振ります。
「違うよ、違うって」
「ははーん、わかったぞ。そういうことか」
 何に納得したのか、再び足元の地図に視線を落としたデン。嬉しそうにポンと手を叩いて
「犬吠埼てことは銚子だ。つまり調子に乗っていると、そういうことだな? 図に乗ってるんじゃなくて、調子に乗っているってわけだ。な? 図星だろ?」
「違うよ、ぜんぜん違う」
 シュンヤはまたしても激しく首を左右に振ります。
「でも、あの娘さんたち、オレを見ながらニヤニヤしてるじゃねぇかよ」
「あのね。デン公のオジサンが乗ったのは図でも調子でもないよ」
「じゃあ何だってんだ?」
「そりゃあもちろん、おいらの口車だよ」
 そう言ってシュンヤはひょいと肩をすくめた。

ここから先は

0字
この記事のみ ¥ 100

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?