見出し画像

必ず落ちる

illustrated by スミタ2023 @good_god_gold

 取調室の蛍光灯がビンと音を立てて点滅している。オリーブ色に塗られた殺風景な部屋には机と椅子だけが置かれ、二人の男が向かい合って座っていた。片側の壁に貼られた鏡はおそらくマジックミラーだろう。
「なあ、木寺さん。いいかげんに白状したらどうなんです」
 飯尾警部はそう言って頭の後ろで両手を組んだ。
「いろいろと証拠も上がっていることですし、証人もいるんですから、これ以上黙っていてもしかたがないでしょう」
 木寺は何も答えず、空になった丼をただじっと見つめているだけで、その顔からは何の感情も読み取ることが出来なかった。
「木寺さん。あなたどこかで相当な訓練を受けましたね」
 これだけの期間、まったく表情を見せることなく完全に黙秘できる人間なのだ。スパイなのか特殊工作員なのか。いずれにしてもこの木寺という男は只者ではない。飯尾はこれまでの経験からそう感じ取っていた。
 ふうっと飯尾は深い息を吐いた。
「あなたがどれだけの訓練を受けてきたかはわかりませんが」
 飯尾はチラリと取調室のドアに視線を向けた。
「こっちには切り札がありましてね。彼女にかかればどんな人間でも必ず最後には自白するんです。いいですか。必ず落ちるんですよ」
 木寺の目がすっと動いて飯尾に向けられたが、それだけだった。
「だからいま、俺に白状するほうがいい。彼女に会えば後悔することになりますよ」
 ほんの僅かに眉を動かした以外、木寺はあいかわらず黙ったまま、じっと座っている。
「しかたがありませんな」
 飯尾は壁の鏡にに向かって頷いた。やはりマジックミラーだ。
 ゴガン。
 重い音を立てて金属製の扉が開き、制服を着た警官が二人入って来た。一人は腕に赤ん坊を抱えている。
「彼女が赤ちゃん刑事だ」
 飯尾は制服警官から赤ん坊を受け取って優しく抱くと、軽く揺すって見せた。
「ダアーアーウアー」
 赤ん坊が嬉しそうに声を上げる。
「それじゃ木寺さん。あとは彼女に任せますよ」
 飯尾はそう言って机の上に小さなかごを置き、その中へ赤ちゃん刑事をそっと寝かせると、警官たちと一緒に取調室を出て行った。
 部屋の中には木寺と赤ちゃん刑事だけが残された。木寺はかごの中に一度だけチラリと目をやったが、すぐにその目をそらし、何もない空間を見つめ始めた。
 十分ほど経った。その間、木寺は同じ姿勢を保ち続けていたが、赤ちゃん刑事は何度か身体の向きを変えようと足をバタつかせていた。
「ギャー」
 何の前触れもなく、いきなり赤ちゃん刑事が泣き始めた。
 その瞬間、それまで微動だにしなかった木寺の身体がビクッと反応した。
「ウギャー、ウギャー、ウギャー」赤ちゃん刑事の泣き声が次第に大きくなっていく。部屋の中で反響した泣き声が、二重三重の音の壁となって木寺を包み込んだ。
「ウギャー、ウギャー、ウギャー、ウギャー」
赤ちゃん刑事は泣き止まない。
 ここに来て、木寺はあきらかに動揺を見せ始めていた。それまで微動だにしなかったのに、どこか落ち着かない様子になって視線を泳がせている。
「ウワーン、ウワーン、ウワーン」
 赤ちゃん刑事はさらに泣き声を張り上げた。泣きながら何かを掴もうと必死で手を伸ばしている。
 ついに我慢できなくなったのか、木寺は立ち上がった。かごからそっと赤ちゃん刑事を取り上げると、抱っこをして優しく揺すり始めた。
 しかし、赤ちゃん刑事は泣き止まない。
「さあ、いい子だ、いい子だねぇ。いい子だから泣き止もうねぇ」
 これまで二週間もの間、ただの一言も声を発しなかった木寺がついに口を開いた。
「フギャーン、フギャーン、フギャーン、フギャーン」
「さあ泣き止んで。ね、泣き止もうね」
「フギャーン、フギャーン、フギャーン、フギャーン、フギャーン」
 赤ちゃん刑事は身体をくねらせ四肢を激しくバタつかせる。小さな手足が木寺の身体や顔にぶつかった。
「ほうら、ほうら、ほうら、ほうら」
「フギャーン、フギャーン、フギャーン、フギャーン、フギャーン」
 赤ちゃん刑事は泣き止まないどころか、何かを求めるような目で木寺を見つめる。
「眠ってねぇえ、眠ろうんぇえ、お休みのぉん、ルルルル」
 木寺はいいかげんな子守歌を歌うがまったく通用せず、赤ちゃん刑事はますます泣き声を張り上げた。
「ようし、ほら、高い高いだよー」
 木寺は赤ちゃん刑事を顔の前にまで持ち上げる。
「ギャアー、ギャアー、ギャアー、ギャアー、ギャアー、ギャアー、ギャアー、ギャアー、ギャアー」
 何かが気に入らなかったらしく、とつぜん泣き声が悲痛な響きに変わった。絶叫に近い鳴き声を上げる。
「ああ、ああ、ごめん、ごめんよ。怖かったんだね」
「ギャアー、ギャアー、ギャアー、ギャアー、ギャアー、グホッ、ゲホッ」
 あまりにも泣き続けているせいか、やがて赤ちゃん刑事の声が枯れ始めた。それどころか、ときおり咳も混ざっている。
「いったいどうすればいいんだ」
 木寺は困った顔になった。
「ギャアー、ギャアー、ギャアー、ギャアー」
 赤ちゃん刑事は自分では何も出来ない。ただ泣くことしか出来ないのだ。たった一つの方法で、木寺に向かって必死で何かを求め続けている。
 何を求めているか木寺にはわかっていた。刑事の求めることといえば一つしかない。
「わかった、わかったから。白状する。もうぜんぶ話す。だから、だから鳴き止んでくれ。頼む、この子を何とかしてやってくれ」
 マジックミラーに向かって怒鳴った。
 その瞬間。
 ガタン。取調室のドアが開き、飯尾警部が制服警官を連れて入って来た。
「だから必ず落ちると言ったでしょう」飯尾がニヤリとする。
「ダアーダアー」
 木寺の腕の中で、赤ちゃん刑事がようやく嬉しそうに笑い始めた。

ここから先は

0字
この記事のみ ¥ 100
期間限定 PayPay支払いすると抽選でお得に!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?