鬼 Oni Kijin 鬼神 死者の住まう土地

鬼とは死者の霊であったので北部東北部に住まうのは当然かもしれませんね。道の奧は越國出羽の東 日高見とか云うのは、今の常陸、日立 常盤 
太陽が大洋から旭日として昇る地域だから、鹿嶋香取神栖という地域は、
最も東向きの土地であるし、阿波に居た人々は安房に来訪したとか、西から北上して移転してきて開拓していた場所、塩竈に入江があるし、島々のある湾もあるのであるし、多賀城という国府も建設されるし、群馬も秩父にもそして国の出先の機関があるのですし、東国が欲しい、更に東の道の奧もその地域全部を手に入れたいという事です、そもそも西の果てから、瀬戸内の海を渡って来た大君と、生駒にいた登美の人々との戦争の話もあるし、または自分たちの土地を譲るという事でもあるとか、日向、高千穂という場所、宇佐という場所、宇土、兎、宇都、など、世界の諸国民の興亡とも深く関連しているのは疑う余地は無いのですし、島邦は八洲、多くの島で成立している土地だし、河内も海だし、生駒の方面の小倉も沼地であるし、関東一体も海の様だったわけだし、鳥の海とか藻の海などもあるし、次第に寒冷化で土地も水が引いていくことだったそうだし、干拓事業の伝承もあるし、技能集団が、畿内から、関東へ、関東から、東北へと移住もしているのですし、そのための鉱物資源なども必要だし、木も必要だしね、伐採し、船を構築するとか騎馬の為の馬や、弓矢の為の羽根とか、それら東北地方から、高価な鷹の羽なども必要だし、熊の毛皮とか、兎の毛皮なども必要になる、それに病気の時に必要なのは、薬草ですし、鉱物資源でもある、中国の仙人は、インドの仙人などとも源流が同じだし、生命の聖典もあるのですしね、いろいろな資源をどんなものだろうかと観察して実験などもしているのですし、滋養滋味慈愛と薬物の効能はしりませんと、病気や怪我などで肉体に侵害がある方の治療や療養に活かせない訳ですし、
自然災害もある、伝染病もある、戦争もあるし、火事もあるし、水の洪水もあるし、風や雷などもあるし、いろいろな自然の現象こそ、神々の怒りとか
人々の不遜が要因とか、天皇の内実がよろしくないからとか、怨霊なども登場するのですし、人々に侵害する品物を贈る善意の欠如した者、物の怪
などもあるし、、人々にとって、どんな具合にして、死者はイメージされていたのでしょうね、、、鬼の住み家である東北地方などは、幽玄、北部だし、暗黒のようなイメージだったでしょうか、野蛮人の住まうエリアだけども鉱物資源が豊富だし、森林や、他の資源も豊富なんだと、ゆえに武内宿禰さんは、全部、奪ってしまえなど命令しているが、、

実際に生きてる事、今在る事については、どんな思いでいたのでしょうね
私的な内実の問題です。


自分の存在については何という思いをみな一人びとり抱いていたのでしょうか
鬼と言われて審判されていた人々も、あの者たちは、野獣の心しかないから処刑してしまえ、と言っていた人々も、、



以下はコトバンクから参照 みちのおくのくに

陸奥国の旧称。国名は東山道の奥の意。史料上の初見は659年(斉明5)であるが,それより少し前の孝徳朝に建国されたと考えられ,建国時の領域は名取・宮城郡(現,宮城県)以南で,7世紀後半には置賜(おきたま)・最上(もがみ)地方(現,山形県)と大崎平野南部(志太)を加えたと推定される。当時は石城(いわき)・菊多郡(現,福島県)は常陸国に属した。仙台市の郡山遺跡は建国時の国衙の可能性がある。676年(天武5)までに陸奥国と改称された。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典




悪路王 - Wikipedia


秋田県
出羽国切畑の伝説
菅江真澄が出羽国雄勝郡にて採取した民話では、悪路王が鬼として伝えられている。菅江が土地の老人に聞いたところによると、松岡の「きりはた山」には「あくる王」という鬼が住んでいた。その妻「たてゑぼし」は鈴鹿山に住んでいたが、夜な夜な通ってきていた。双方とも「田村としひと」に討伐されたという[40]。

雄勝郡切畑郷の蓮華平村の名前は、悪路王がいたころ、この地に大きな池があり多数のハスが咲いていたことに由来するという。江戸時代にはすでに池はなくなっており、跡は田地になっていた[41]。同じく切畑郷の畑村には「鬼の窟」があり、悪路王が住んでいたとされる[41]。また切畑にあった山田城は、後三年の役で金沢城から敗走してきた清原武則が立て籠もったといわれるが、それ以前は悪路王の居城であり、「鬼ケ窟」と呼ばれる洞窟があったとも伝えられる[42]。

秋田県に残る話の中には、当初悪路王が根城としていたのは雄勝郡剪旗山(きりはたやま)であり、田村麻呂に追われて達谷窟に遷ったとするものもある[43]。また、達谷窟から逃げてきた悪路王が、皆瀬村の霧二十重山(きりはたえやま)に籠ったものの、追撃してきた田村麻呂に討たれたとする、逆のパターンもある[44]。

秋田県湯沢市松岡を流れる切畑川の上流には「阿黒岩」と呼ばれる院内石(凝灰岩)の露頭があり、秋田県道278号雄勝湯沢線から望むことができる。ここは「阿黒王」という鬼が坂上田村麻呂に討たれた地と言われ、崖の中腹には「阿黒王神社」の祠が据えられている。また松岡には、このとき田村麻呂が戦勝を祈願して建立したと伝えられる白山神社もある[45]。

湯沢市相川の東鳥海山の山上には、田村麻呂が陣を張って戦勝祈願を行ったのを起源とする東鳥海山神社がある[46]。この山にある鬼子骨(おしこ)塚に討たれた悪路王の腕が埋められ、その際に植えられた一株の山椿が後世になっても咲くのだという[47]。


大野東人 - Wikipedia

大野 東人(おおの の あずまびと)は、奈良時代の公卿・武人。糺職大夫・大野果安の子。姓は君のち朝臣。官位は従三位・参議。

経歴
和銅7年(714年)布勢人と共に騎兵170騎を率いて三椅(平城京門外)で新羅使の入京を迎える(この時の位階は正七位上)。養老3年(719年)正六位下から二階昇進して従五位下に昇叙。養老4年(720年)に発生した蝦夷の反乱(征夷将軍・多治比縣守により鎮圧)後、まもなく蝦夷開拓の本拠として多賀柵を築く。

神亀元年(724年)2月に聖武天皇の即位後まもなく従五位上に叙せられる。同年3月に海道の蝦夷が反乱を起こして、陸奥大掾・佐伯児屋麻呂を殺害する[1]。この反乱を鎮圧するために4月に持節大将軍・藤原宇合以下の遠征軍が派遣され、11月に帰還しているが[2]、東人は副将軍格で従軍したらしく、翌神亀2年(725年)軍功に対する叙勲位が行われた際、従三位・勲二等の宇合に次いで、東人は従四位下・勳四等を授けられている。天平元年(729年)陸奥鎮守将軍に任じられていた東人は、鎮兵の功績に対する叙位を上奏して許され、功績第一等の者30名への二階昇進などの叙位が行われた[3]。天平3年(730年)従四位上に叙せられる。その後も蝦夷の開拓を進め、天平5年(733年)にはそれまで最上川河口付近(現在の庄内地方)にあった出羽柵を雄物川河口付近(現在の秋田市付近)に移している。

天平9年(737年)正月に陸奥按察使兼鎮守将軍の任にあった東人は、多賀柵から出羽柵への直通連絡路を開通させるために、その経路にある男勝村の征討許可を朝廷に申請した[4]。これに応じて兵部卿・藤原麻呂が持節大使に任じられ、2月に関東6カ国の騎兵1000騎を率いて多賀柵へ到着した。3月1日に東人は精鋭の騎兵196騎、鎮兵499人、陸奥国兵5000人、帰順した夷狄249人を率いて色麻柵(現在の宮城県加美郡加美町城生か)から遠征に出発、奥羽山脈を横断し、男勝村の蝦夷を帰順させて奥羽連絡通路を開通した。3月11日には東人は多賀柵に戻り、連絡通路開通について大使・藤原麻呂に報告を行っている[5]。

天平11年(739年)陸奥国按察使兼鎮守府将軍に大養徳守を兼ねていたが、参議に任じられ公卿に列す。

天平12年(740年)9月に大宰少弐・藤原広嗣が九州で挙兵。東人は持節大将軍に任じられ、五道から徴発された1万7000人を率いて広嗣の討伐を命じられた。9月末に東人は長門国へ至ると、佐伯常人・阿倍虫麻呂に先発隊を率いさせて渡海させ板櫃鎮(豊前国企救郡)を攻略。10月に広嗣軍1万騎が板櫃河に到着して、佐伯常人らの官軍6000人余と会戦、官軍が広嗣軍を破る。10月23日官軍は船で海上に逃れていた広嗣を捕らえ、11月1日に東人は広嗣とその弟綱手を斬った(藤原広嗣の乱)。

天平13年(741年)藤原広嗣の乱を鎮圧した勲功により従四位上から三階昇進して従三位に叙せられる。同年聖武天皇が恭仁京に遷都した際、旧都平城京の留守役に任じられる。天平14年(742年)11月2日薨去。最終官位は参議従三位。

藤原麻呂 - Wikipedia

天平5年(733年)12月にそれまで最上川河口にあった出羽柵をさらに北の秋田村高清水の岡に移設し、雄勝郡を建郡したが[8]、陸奥国から出羽柵までの往来に時間がかかるようになってしまっていた。この状況の中、陸奥按察使兼鎮守将軍・大野東人が陸奥から出羽柵までの直行路の構築を建言した。これを受けて、天平9年(737年)正月に麻呂は持節大使に任ぜられ、多賀柵より雄勝村を経由する陸奥から出羽国への直通路開削事業を行うために東北地方に派遣される。2月に多賀柵に到着すると、同月から4月にかけて東人が遠征を行い、奥羽山脈を横断して男勝村の蝦夷を帰順させ奥羽連絡通路を開通させる。これを受けて麻呂は4月中旬に征討の完了と徴発した兵士の解散を奏上している[9]。

その後、5月末から6月初旬頃に帰京したと考えられるが[10]、帰京後まもなく当時大流行していた天然痘にかかり7月13日に薨去。享年43。最終官位は参議兵部卿従三位。四兄弟が短期間に相次いで死亡していることから、相互に見舞いのために訪問し合った際に感染したものと考えられる。

藤原京家は麻呂が京職大夫だったことに由来する。




坂上田村麻呂将軍が、都から東山の道の奧に
派遣されてきた。
いゆる蝦夷とか都の貴族たちが呼称していた人々の
リーダーであった大武丸という人を斬った事。
その首を切った場が
今の鬼首(おにこうべ)と呼んでいる地域
鬼首というのは、鬼切部(おにきりべ)というのが本当。



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