見出し画像

Part1 『音楽への興味と自尊心』

アルバムまでのルーツを振り返る独白企画『I am ASOBOiSM』#1。
国際交流豊かな幼少期〜ホームステイで培われた音楽背景をお話しします

聞き手・文◎高木“JET”晋一郎

“同級生に「あなたの家は変わってるね」って言われたり”

画像3

 シンガーソングライター/ラッパーのASOBOiSMです。1994年に長崎で生まれました……けど、2ヶ月ぐらいで横浜市戸塚区に引っ越したので、生まれも育ちも戸塚です。
 両親は多言語教育に関わる仕事をしていて、私も子どもの頃から21ヶ国語を話せるよう、マルチリンガルになれるように、という教育方針で育って。だから子どもの頃から「今日はフランス語で挨拶」「明日はイタリア語で」みたいな(笑)。仕事柄、ホームステイや留学生だったり、海外の人がうちに来たり、関わることがすごく多くて。だから子供の頃から「外国人」に対する偏見とか、そもそもそういう人種とか国籍みたいなことで「分け隔てる」感覚自体がなくて、人に心をすぐ開く子だったし、誰にでもウェルカムな性格に育って。だけど近所の人の中には、母と留学生が一緒に歩く姿をみては「あの奥さんはフランス人と国際結婚してる」みたいな噂を話をする人もいたそうです(笑)。東京みたいに外国人が多かったり、いまみたいに社会自体がグローバルな感じならまた違ってたんでしょうけど、当時の戸塚はそういう感じでした。ホームステイにきた方を学校に招いて、その国の文化を教えて貰ったりっていうカリキュラムのコーディネートも母がしてたんですが、そういうことがあると同級生に「あなたの家は変わってるね」って言われたり。それを恥ずかしいとかは思わなかったんだけど、イジられるんだな、って思ってましたね。

画像3

 私自身も小学校5年生の時にはロシアに一人で2週間、ホームステイに行きました。ホストファミリーはすごく優しい人たちだったんですけど、心細いし、言葉は通じにくいし、っていうので毎日泣いてしまって、困ったホストファミリーがお母さんに電話させてくれたんですね。それで「もう帰りたい」って言ったら、お母さんは「もう電話してくんな!」の一言でガチャ切り。お母さんはホストファミリーに「これが日本のサムライの魂か!」って後で言われたみたいなんですけど(笑)、私もそこで完全に諦めがついて、ロシアの生活を楽しもうってモードになったのは未だに覚えてますね。そこからは同世代の子と遊んだり、色んな場所に連れてって貰ったり。ホームステイ先が田舎で、公衆トイレが多いような場所では無かったんで、白樺の木に囲まれて用を足したのは鮮明に記憶に残ってます(笑)。

写真 2020-10-13 18 15 19

“仮入部でドラムを叩かせてもらったらすごく楽しかった”

 音楽はピアノを小学校1年から中1までやっていました。先に3歳年上のお兄ちゃんが習ってて、兄と一緒に通ってたんですが、兄は上手くなったのに、私は本当にセンスがなくて、ピアノの中級者向けの教則本が7年間で4~5ページぐらいしか進まなかった(笑)。先生も厳しかったし、練習も好きじゃなくて、通うは通うけどやる気ゼロみたいな。
 音楽にもその当時はそんなに興味がなくて、お兄ちゃんが聴いてたORANGE RANGEとか、流行ってた大塚愛さん、YUIさんを聴くぐらい。あと、嵐はポスターを貼るくらい好きでした。家自体も音楽一家っていう感じではなかったですね。だけどお父さんもお母さんも中学校のときはギター同好会に入ってたり、お父さんは自作の曲をカセットテープにちゃんと録ったりしてたんですよ。そのテープを発見したときは、ソングライティングをするのは血筋だったんだな、って(笑)。データにしてiPhoneに入れて聴いてるんですけど、結構いい曲ですよ(笑)。
 最初に買ったCDは、アメリカのカントリー・グループ:ラスカル・フラッツ。当時、お母さんがORANGE RANGEの「花」が好きで、そのCDを買いにいったついでに、中古盤のワゴンセールを見たら、ラスカル・フラッツのCDがあったんですよね。カントリーもよく分かって無かったし、ビジュアル的には小学校で女の子にはピンとこない感じだったんですけど(笑)、「全米ナンバーワン!」みたいな帯の惹句に惹かれてジャケ買いしたのを覚えてますね。

 中学校では吹奏楽部に入りました、それも成り行きで。運動神経は悪くなかったんで、運動部の仮入部に行ったら小学校の時に私をいじめてた子がいて、そういうタイプの子がいない部活を……って探してたら吹奏楽部に行き着いて(笑)。でも仮入部でドラムを叩かせてもらったらすごく楽しかったんですよね。それからお茶碗とお箸で練習して、正式入部して楽器のセクション決めの時には、8ビートが叩けるようになってて、無事ドラムやパーカッションのパートに入って、3年間そのパートを続けました。
 部活では最終的に部長になりました。木管楽器と金管楽器はお互い暗黙のライバル感があるし、両方に属さないパーカッションだったのと(笑)、みんなと満遍なく仲が良かったっていうのもあったから、先生からの任命っていう感じで。だから部長になりたがってた人からはちょっと妬まれてたり。
 自分で聴いてた音楽は、洋楽が中心になっていきましたね。ディズニー・チャンネルで放送してた「シークレット・アイドル ハンナ・モンタナ」がすごく好きで、マイリー・サイラスの大ファンだったから、彼女の音楽をよく聴いていましたね。他にもアヴリル・ラヴィーンとか、洋楽のポップスがリスニングの中心になっていました。追いかけるぐらいの気持ちで大好きだったのはテイラー・スウィフト。
 高校では軽音部に入ってドラムを叩いてました。ただ、参加したバンドがちょっと変わっててて、例えば「それいけ!アンパンマン」の「アンパンマンのマーチ」をパンクっぽく演奏するような、尖ってたというか、クレイジーなバンドで(笑)。他にもサンボマスターのカヴァーなんかもやってました。ただ、自分で好んで聴くのはアヴリルやテイラー・スウィフトみたいなアメリカのポップ・アイドルが中心でしたね。ジャスティン・ビーバーも武道館公演にも行くぐらい好きで。でもバンド・メンバーは洋楽を聴くタイプの人達ではなかったから、そこで「アヴリルの曲をやりたい」って提案したことは無かったし、私もドラムが叩ければよくて。BUMP OF CHICKENとかは聴いてたんで、そういう邦楽の話はバンドのメンバーと、洋楽の話は多言語教育の友達と、っていう感じでしたね。

“自分の存在を肯定しまくってくれた”

 自分の転機として一番大きかったのは、高校2年生の時にアメリカに一年間留学したことですね。留学先はテキサス州のヒューストン郊外だったんですが、そこで受け入れてくれたホストママから受けた影響は、すごく大きかったと思う。まず音楽がすごく好きで、私にiPodを買ってくれて、そこに彼女がオススメする曲を沢山入れてくれたんですよね。そこにはジャスティン・ビーバーとラスカル・フラッツがコラボした「That Should Be Me」っていう曲が入ってて、そこで点と点がつながって(笑)。土地柄もあると思うんですが、カントリーの曲も多くて、ジェイソン・アルディーンを知ったのもそれがキッカケでしたね。

歌詞の内容や意味もホストママが教えてくれて、文化的な背景も理解できるようになったり。学校への送り迎えでアデルの曲を合唱したりもしてました。ただ、クリスチャンで保守的な家庭だったので、いわゆるダーティ・ワードが出てくるような曲は聴かせて貰えなかったし、そういう曲はラジオで掛かるようなクリーン・バージョンだったらOKみたいな。だからヒップホップはほぼ聴かせてもらえてないですね。テレビもディズニー・チャンネルか、Netflixも子ども用の設定で、モラルについては厳格でしたね。
 アメリカの高校ではアメフトのシーズンはマーチング、オフシーズンにはジャズを演奏するサークルに入って、ドラムやパーカッションをやってました。それから演劇にも出ましたね。当時は「glee」が流行ってて、それで演劇に興味を持って。そこで演じたお芝居の内容は「ファイディングニモ」だったんですが、英語はぜんぜん上手くないなりに、セリフを全部覚えてオーディションに挑んだんだけど、舞台に立った瞬間に全部セリフが飛んじゃって。でもみんな優しくて、それでも役をくれたんですが、2時間ずっとフーフーいいながら汗を拭いてる妊婦っていう役でした。セリフはゼロ(笑)。
 舞台に出たのは、表現欲求があったというよりも、ホストママの後押しでしたね。ホントにパワフルな女性なんですよ。英語が上手く喋れないから、パーティに誘われても迷惑になっちゃうかなって、ちょっとウジウジしてたら、「No regret!(後悔するな!)」って、背中をバンバン押してくれて。舞台もポロッとそんな話をしたら「興味がちょっとでもあるならやってみなさい!」って。
 そのホストママの考え方だったり、アメリカでの生活を通して、自分にすごく自信がついたんですよね。日本って謙遜が美徳だし、自分のことを「小生」って言ったり、パートナーのことを「愚夫」「愚妻」っていうように、自尊感情を低くする表現が多いと思う。でもホストママは「あなたは完璧!」「今日も美しい!」みたいに、自分の存在を肯定しまくってくれたんですね。それが一年間続くと、自尊心は高まるし、「私はなにも間違ってない!」っていうメンタリティになって。そういうマインドでアメリカから帰ってきたから、食事のせいかかなり太ってたんですけど、露出の高い服を着ても、それが何が悪いの?って。それに、当時のアメリカ自体がそういう見た目や容姿で笑ったりするルッキズムはもう時代遅れだったから、日本に帰ってきて、そういう自分を見て笑うような人は可愛そうだなって。そういうマインドを持ってましたね。
 でも、そういう自信をバキバキに折られる時もくるんですけど……。その話はまた次回。

"PRIDE" Music Video

アルバム「OOTD」はこちらから

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?