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多様性ってさ……って話

こんにちは。

ブチ切れお気持ち表明ブログばかり書いていますが、今日も安定のお気持ち表明なのでお暇な方だけお読みください。

最近「多様性」って単語をよく耳にするようになりました。
幼稚園の頃から障害がある子やハーフの子とともに成長してきたので(そして女の子に告白されたこともあるので)個人的には個々の思想がどうでも構わないと考えているのですが。

押し付けはやめてほしい。

「障害があるから配慮して!」
「男だけど女湯に入りたい!」

いや、思うのは自由ですよ。
でも配慮の押し付けは違うんじゃない?と。

そもそも仮に、そういった"大多数とは少し違う人"を嫌悪する人がいたとして、それもまた個人の考えなわけで。
そこも含めて「多様性」なんじゃないかなぁと。

Aという事象を理解できる人、理解は出来ないけどまぁ好きにしてくれよって人、そして全く理解できず否定したい人。

そういう人々がそれぞれの考え方を保ったまま生きていけるのが、本当の多様性を認める社会なのでは?と思い、昨今の社会情勢に疑問を持っているわけです。

そして病名がつかない「他人とは少し違う部分」って誰でも持っているものではないかとも思っていて、例えばわたしは当日にスケジュールが変わるのがすごく嫌いだし、湿気で体がべたつくのも嫌いだし、人の話を聞かない人も、日本語を正しく使えない人も嫌い。

でもそれって他人と関わる上で多少妥協して生きてることで。

湿気酷いんで仕事休みます、とか言ってたら生きていけない訳ですよ。
極端な話、お前はわたしの話聞かないからもう嫌いだ、カットアウト!は出来るかもしれないけど。笑

何が言いたいかと言うと、まぁみんな日常的に生きにくさって感じるよね、でも上手いこと擦り合わせながら生きてるよねってことで、そこに性別も年齢も国籍も疾病も既往歴も関係ないと思うんですよね。

そして今の「LGBTを認めろ!」とか騒いでる人たちって当事者じゃなくて、わざわざ石の下に暮らしているダンゴムシを日向に出して干からびさせてるように見える(多分儲かるんだと思うけども。)

そうやって、今まで生きにくいながら何とかやってきた人たちの肩身を狭くしてるのは結局誰なんですかね?と。

だから、これを読んだ人が肯定するのも否定するのも自由なんですよ、だってそれが多様性なんだもん。

おわり。

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