見出し画像

凡人、みんなのフォトギャラリーにて感激す

私の記事の見出し画像は基本的に、自分で描いたり撮った写真、過去に撮っていた写真など自身のものであることが多い。(というかnote初めたての頃はそうするものだと思っていた。)
これを、更新ついでに「みんなのフォトギャラリー」にいくつか登録しているのだが、noteで記事を書く方に使用してもらうことがぽつぽつとあってとてもうれしい。


(使用してくださっている記事はこちらでまとめさせていただいております。↓)


それが「過去にスマホでカシャッとやってたようなものを何となく使用しといた」ようなものでなく、目的があって、記事に見合うように自分で考えながら描いたものだったりすると報われたような気持ちになる。

この記事のためにと頼りない想像力をどうにかこうにか働かせながら作り、でも結局は自分のためにやったようなものが、他の誰かの記事を彩るものにもなるのだと思うとちょっとじんとくる。
その人が書きたくて書いた記事や文章、作品を、より魅力的なものにできていたらうれしい。私の画像を見た時に、そう思って使用してくださっていた方がもしいたんだとしたらこの上ない。

描いた絵などをSNS上に載せてみることは過去にもやっていたけれど、誰かの役に立つようなことではなかったし、役に立ったと自覚したようなこともなかった。描けたから気持ちよくて、ちょっとテンションが上がってただ載せる、そういう感じだった。(自分の絵を発信するという行動はそういうスタンスでいいのだと思うし、そのスタンスの是非を深く追求する必要はないと思う。)
ただ、この「ちょっと載せてみる」くらいの行動が普通で、それ以上になることはないと思っていた私は、自分の産物が誰かの目に触れ、これが使用され、少なからず役に立ったのだという経験が大袈裟だけれど衝撃に近かった。
自分の表現が、誰かの役に立った。衝撃だ。
と、今更ながら思う。

自分は影響力やカリスマ性、説得力、発言力を持つタイプの人間ではどう考えても、客観的に見てもまあないという自覚がある。納得できる。
自虐でなく、不貞腐れているわけでもなく、私は放っておけば超がつくほどの「その他大勢」だ。
でも、この「その他大勢」にもみんなそれぞれに色があって、大勢の中にいるんだとしても、自分で自分のその色を認めてしっかり持っていることができていれば、それが誰かの中の色と反応して混ざることがある、力になれることがあるのかもしれないと思った。

今のところ自分の記事用に作成したものを登録しているだけだけど、「このテーマの記事に役立ちそうなイメージ」を目的にして描くことがあってもいいかもしれないな。ちょっとハードルが上がるな。
誰かの記事を魅力的に彩るものができるといい。

そのような最近でした。


この記事の見出し画像は2年前くらいに地元の公園で撮った河津桜です。もうすぐ春ですね〜


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