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1-3: その時、私は自由だった

——来たんだ。

それまでずっと心の中だけにあったものが、急に目の前に現実となって立ち現れた。その岩に向かって一歩一歩歩きながら、私は自分が、これまでこの瞬間を幾度も夢見て来た過去の自分が、今歩いている自分と二重写しになっているような感覚にとらわれた。

あたりを飛び回るハエに気をつけながら、深く息を吸い込む。高揚と緊張を息とともに吐き出すと、私は柵のそばへ近づき、軽く身を乗り出した。

青い岩は、はるか遠くに、まるで何万年か前に動きを止めることにした大きなゾウのようにしずかに座っていた。
あるいは、誰かがふと、この見渡す限り平坦な大地に何か目印でもつけてみようか、という意匠のもとに付け加えられたモニュメントのようにも見えた。

空は思っていたほどには赤くなく、むしろうすい水色から紺色へと変わってゆく合間の薄紫色をしていた。地平線を黄色く染める夕日は、舞台の背景を照らすホリゾントライトを思い出させた。土と、雲と、岩と、空。自分からその岩までの間には、柵と灌木をのぞけば、ほとんどモノが存在していなかった。

——もうこれで、この旅は完結しちゃったんじゃないか?

あまりにも完璧すぎて、ひとりでに笑ってしまう。もし”場所”に恋するということが可能なのだとしたら、私が経験しているのはまさにそれだった。ずっと眺めていたい。時がこのまま止まってほしい。そんなふうに思った。

自分を縛っているものをできるだけ少なくしたいという衝動にかられ、私は髪を束ねていたゴムを外した。汗でしっとりとした髪を、夕暮れの風がなでていく。私は大きく伸びをし、身体全体で風を感じながら深呼吸した。今自分に起こっているすべてを、全身の細胞でおぼえておきたかった。

「んー」

——よかった。

なぜかその瞬間、自分が正しい生き方をしているのだという直感がよぎった。
4日後私は、32歳になる。率直に言って、私には何もなかった。仕事も、住む場所も、家族も。わずかな貯金すら、この国の物価の高さの前にはすぐに消えてしまいそうだった。

不安になってもよさそうなものなのに、自分の中に何ひとつネガティブな感情が現れないことに、私は少しおどろきつつ、その心の変化を楽しんでいた。
自分が、ただしいこと、やるべきこと、やりたいことをやっているという確信があった。何光年かに一度、星がある時たまたま一列に並ぶ瞬間があるように。

——ここに来られて、よかった。

私にはあと363日の時間と、どこへでもいける身体があった。「自由」という言葉の意味を定義するなら、今この瞬間だと思った。

——この景色、この感動は、残しておかなきゃ。

私はiPhoneを取り出すと、セルフィーをとろうとした。
エアーズロックを背景にして自撮りをしたかったものの、エアーズロックと自分の顔と周囲の風景をとらえるためには、腕の長さが足りないようだった。私はなんとか小さな画面の中に自分と巨大な岩とをおさめようと、四苦八苦した。

「撮ろうか?」

穏やかな英語の響きに目をあげると、iPhoneの向こうにくたびれたインディ・ジョーンズといった雰囲気の男性がにこにこと佇んでいた。年齢はインディ・ジョーンズとヘンリー・ジョーンズの間といったところか。

「あぁ、ご親切にありがとうございます」

Oh, thank you very much, that’s so kind of you. こんなふうに見知らぬ人からの好意をそのままありがたく受け入れることができるのも、旅の醍醐味のひとつだ。

iPhoneを差し出し、簡単にシャッターボタンの位置を教える。彼はうなずき、太い指で私のiPhoneを構えた。

「OK、3、2、1、スマイル」

言われなくとも、笑顔にしかなれなかった。

「どうぞ」

There you go. 彼は満面の笑みで、私にiPhoneを返した。私が礼を述べると、「どういたしまして」とうなずいた。顔の半分くらいが口になってしまいそうな、大きな笑顔だった。

「最高の場所だね、そう思わないかい?」

あるがままをあるがままに愛でるような口ぶりで、彼は私に話しかけた。

「ほんとに」

Absolutely, 私は答えた。

「ここにずっと来たかったの。来れてよかった」

彼は私のほうを振り向くと、いかにも満足そうにうなずき、そして尋ねた。

「ここへは一人で来たの?」

Yes, 私は答えた。その「ここ」という言葉が、展望台なのか、ウルルを指しているのか、それともオーストラリアという意味なのか、私は一瞬図りかねたけれど、どれも答えはYESでしかなかった。

「日本から来たの。今日ここについたばかり」

「そうか。僕はシドニーから来たんだ」

彼はのんびりとした調子でいった。

「僕がここへ来たのは二度目なんだけどね。来られてよかった。本当に、何度来ても素晴らしい」

彼は岩を見つめていった。

「シドニーか。シドニーってどんなところ?」

彼は再び嬉しそうに微笑んだ。人を安心させるような、素直な笑みだった。

「シドニーは素晴らしいところだよ。僕はもう20年住んでいる」

「そうなんだ。シドニーには、そのうち行こうとは思ってるんだよね」

私は自分の境遇を説明した。一年間のワーキングホリデービザでオーストラリアに来たこと。旅が今はじまったばかりだということ。何のプランもなく、とりあえず入国してからどうするか考えようと思っていたこと。シドニーに行ったことがないので、ぜひ行きたいと思っていること。

彼は愉快そうに私の話を聞いていた。

「それはいいね。シドニーに来たら連絡して。案内するよ」

まだSIMカードも買ってないの。そう私が答えると、彼は手帳を取り出し、電話番号を書くとそのページをやぶって私に渡した。

「ジョージ?」

電話番号とともに書かれた名前を私は読み上げた。

「そう。スペイン語では、ホルヘ」
それで彼の英語に少し訛りがあったのかと、私は合点がいった。
「そっか。私の名前はミヤ。よろしくね」

私たちは握手した。ホルヘの手は大きくあたたかかった。そっと手を差し出すだけで強く握らない握手をする人がたまにいるけれど、ホルヘの握手はしっかりと私の手を包み込み、それでいて強引さを感じさせない、とても安心できる握手だった。

私たちはどちらからともなくベンチに座り、そこからふたたび岩をながめながらあたりさわりのない話を続けた。旅の予定のこと、オーストラリアの名所のこと、これまで旅した場所のこと。
空の青さは夕焼けの黄色と混じり合い、そのグラデーションを少しずつ変化させていった。チョコレートがだんだんと溶けるように、エアーズロックは夕闇に黒く溶け込んでいくようだった。

「星が見えるといいんだけどな」
私はなかば独り言のように言った。

「見えるよ、ここからなら」

ジョージは嬉しそうに言った。私が星を見たいと思っているということを、歓迎しているような口ぶりだった。

「もうしばらくここにいたら、一番星が見られると思う。いや、もう出てくるかな。とにかく、ここからの眺めは、夜も最高だよ」
「よかった。ウルルで星を見るのが、もうひとつの夢だったの」

私は空を眺めた。雲の切れ間にかすかにまたたいている星があった。風が少し強くなり、私は肌寒さを感じた。

「私、あとでここへ戻ってきてみる。夕食を食べたあと」
「うん、それがいい。けれど、サンダルじゃなくて靴を履いてきたほうがいいよ。蛇がいるかもしれないからね」

オーストラリアらしいコメントに私は微笑み、そしてうなずいた。

「アドバイスありがとう、そうする。話せてよかった。写真ありがとう」

「どういたしまして。残りの旅行、楽しんでね」

ジョージはかるく手をあげた。私もかるく手をあげ、そして立ち上がった。小さなフットライトが来た道をほのかに照らし出していた。

丘を降りる直前、私は振り返ってもう一度岩を眺めた。大地はほぼ闇に沈み、残照がわずかに地平線を黄色く染めている。影絵のようにシルエットだけが残っていた。初めて出会ったこの場所のインパクトを、心にとどめ、残しておきたかった。丘を下った。途中でなんとなく気になって、一度振り帰った。ジョージはまだベンチに座って、空を眺めていた。

——あの人には、また会うような気がする。

踵を返した瞬間、そんな不思議な感覚が、ふと私をとらえた。

それが「もう一度会いたい」という希望だったのだと私が気づいたのは、もっとずっとあとになってからだった。

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