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直観力を磨くこと

日本から3000㎞離れた常夏の島国・フィリピンで暮らしていたことがある。2014年8月から約1年間、首都マニラにある大学に留学していた。

今も昔も「なぜフィリピン?」と聞かれることは多々あるが、残念ながら特段そこに美しい理由があったわけではない。英語はもともと好きだったし、旅行でアジアを訪れた時に感じた指先までわくわくする感覚がずっと心地よく体に残っていたのが、強いていえばの理由なのかもしれない。

おそらくフィリピンとの出会いは、直感のようなものだった。

「アジアについて学んで、将来の選択肢を増やせたら」なんて都合の良い解釈にのらりくらいとたどり着き、結果的にフィリピンや東南アジアと向き合うことになった5年間の大学生活。何か新しい一歩を踏み出す時に、明確で説得力のある理由は、思ったほど必要がない。「もしかしたらこっちかも」という感覚を信じて進む方が、私にはあっていた。

「何かになる」ことに大きな価値を置けずにいた、高校生のころの自分。
将来は医者になりたいと目標に突き進む友人の横で、今日の部活の筋トレは何にしようというような類の考え事しか私の頭にはなかった。一生懸命探してはみたものの、やりたいことやなりたいものが見つからない自分を不甲斐ないとも感じた。

そんな感情に折り合いをつけられたのは、なりたいものが見つかるまでは目の前のことを頑張ってこなしてみようと思えたからだ。具体的な目標ではなく、ぼんやりとした人生のベクトルをもつ。やりたいことがない状態に対して後ろめたさを感じるのは、しばらくの間やめよう。こう考えた途端うそみたいに心が軽くなって、色々なものに対してのハードルがぐっと下がった。「何にでも挑戦してみよう」と明るい気分になれる日が増えた。

そんなこんなで偶然にも経験した、1年間のマニラ生活。

しかしあの時に感じた想いや出会った人、街がもつ力いっぱいのエネルギーは、確実に今の私の原動力になって、その温度を下げずに心の深いところにずっと残っている。

常夏の国フィリピンは、焼け付くような太陽と人々の笑顔がよく似合う。

眩しい日差しで彩られる1日の始まり。気持ち良い風が通りぬける野外の台所で、はじけそうなほどみずみずしい果物を頬張る。通学路では「ジープニー」と呼ばれる乗り合いバスに揺られ、ぼーっと外を眺めてみる。排気ガスをめいいっぱい吹き出したバスが、舗装されていないガタガタの道路をずんずんと進んでいく。

早朝のジープニーに漂う、ふわふわとしたシャンプーの匂いが大好きだった。シャワーを浴びたての乗客がなびかせる髪のかおりと、排気ガスと、路上の屋台の香ばしい匂いが混ざり合って、私の鼻をくすぐる。授業終わりにはすこし遠回りをして、友人ところころ笑い合いながら、ぺたぺたとサンダルで帰路につく。日が沈んでたっぷり疲れた後に浴びる水シャワーは、心も体もまっさらにさせてくれた。

これまで生きてきた日本の生活より、様々なことがとにかくシンプルだった。

冷房がない環境にいると朝は自然と目がさめるし、水シャワーはおどろくほど気持ちが良い。市場には季節の食べ物が所狭とならんでいて、ガタガタの屋台の椅子に座って頬張る焼き鳥は、笑ってしまうほどにおいしかった。

ともに談笑する友人たちの、自分の気持ちに正直に、全身で喜怒哀楽を表現する様子が純粋に人間らしくて、まわりを気にすることが多かった自分にとってその生き方はとても眩しかった。

日本のようにあれこれと考えつくされて設計された道具や商品はほとんどないから、次第に自分で色々な工夫をしながら生活を送るようにもなった。
 
外の大きな鍋でご飯を炊く時は「ぽこぽこ」という音の鳴り方で、炊け具合を判断できるようになった。なぜか冷蔵庫は冷たくないから、匂いをかいで腐ってそうな野菜を区別できるようになった。電車に時刻表はないから、日々の生活から自分なりの時間軸を作るようになった。スマホを見ずに歩いていたおかげで、こぼれるほどに咲き誇るブーゲンビリアに気づき、ふと立ち止まることもできた。お金を騙し取りそうなタクシードライバーなど、初対面でもその人柄がなんとなくわかるようになった。

何をするにも、どこに行くにも、自分の頭と感覚と、そして積み重ねた経験が頼りだった。こんな生活をしていると、すこしおおげさかもしれないけれど、確かに生きているという感覚が全身をめぐってくるから不思議だ。

電車に乗るにも書類の手続きを行うにも、1つ1つの行動にいちいち時間がかかるし、小さな成功もある一方で大きな失敗もある。ただ、自分の頭を使って自分で体を動かし、自分で生活を決めているいう気持ちからくる幸福感と、それに伴うすこしの疲労感が、つくづく「人間らしいな」なんて感じる日も多かった。

世の中には、本当にたくさんの便利なものであふれている。

便利になると、便利さに慣れると、自分で考えずともできてしまうことが増えてくる。しかし便利なものを手に入れるとは、自ら考え工夫する機会を失うことでもある。便利さだけがすべてでないし、効率の良さだけを追求するのもなんだか違う。帰国後に日本で生活していると、小さな違和感を感じることも少なくなかった。

今の私の暮らしには、マニラを感じられる瞬間はとても少ないし、あまりにも便利で快適な生活に身をおいてしまうと、自分の能動的な感覚や力が弱くなっていく危機感すら感じる。

だからこそ自分の感覚を常にアップデートできるような環境に身を置いたり、今までの経験を、マニラでの日々を、マニラで学んだちっぽけで当たり前だけれど、人生にとって大事なことを振り返る時間をもつことが大事になってくるのだと思う。

自分の生活は自分で決めること。頭で考えるのではなく、自分の直感を大事にすること。場所を変えたって、自分が変わらなければ何もかわらないこと。日本が特段優れている素晴らしい国ではないこと。積極的に出会う人の幅や数を増やしていくと、思いもよらなかった新しい可能性に出遭えること。直観力を指針に人生の方向を考えて、好きなものや好きな人にチューニングする機会を怠らないこと。(「直感」でなく「直観」という表記については、以下の文章がとても好きなので少しだけ引用)

僕は『直観力』が非常に重要だと考えています。無意識的に物事を感じ取る『直感力』とは異なり、経験に基づいて意識的、論理的に思考、判断するのが『直観力』です。(「おもろい挑戦で直観力を」頭でなく身体で学べ 、京都大学山極寿一総長)

毎日くたくたになりながら自分の価値観を壊しては、また作り上げていく。そんなきっかけをくれたマニラでの日々は絶対に忘れたくないし、多分そのなかに、いままでずっと見つけたかった「なりたいもの、やりたいこと」が隠れていると思うと、今からとっても楽しみでもある。

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