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法華経の風景 #2 「大阪・堺」 宍戸清孝・菅井理恵
ヘッダー写真:山口家住宅
写真家・宍戸清孝とライター・菅井理恵が日本各地の法華経にゆかりのある土地を巡る連載。第2回は大阪府堺市を訪れた。
※ 企画の詳しい趣旨は、予告記事の後半部分をご覧ください。
南海電鉄の堺駅を出ると、鋭い日ざしに目を細める。肌寒かった前日から一転、夏がすぐそこに来ていた。少し歩くと、川岸に一定の間隔をあけて鯉のぼりが掲げられている。ここは、わずかに残る「環濠」の跡だった。
海に近く、摂津・和泉の国境に位置した「さかい」。室町時代、「遣明船」の発着港になったことで、一躍、歴史の表舞台に登場した。さらに、伝来した鉄砲にいち早く目を付け、堺は瞬く間に日本一の生産地となる。
世の中は応仁の乱を皮切りに戦国時代に突入していた。圧倒的な経済力を背景に「会合衆」と呼ばれた有力な商人たちは、合議制による都市運営に乗り出す。街の西側は海、ほかの三方を濠で囲む環濠都市。堺に滞在したポルトガル人宣教師は、堺を「日本のベニスのごとし(ベニスのような、執政官が治めた自治都市だ)」と評した。
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応仁の乱の頃、京都には21もの法華寺院の本寺があり、「題目の巷」と称された。題目とは「南無妙法蓮華経」のこと。しかし、1536年、山門(比叡山延暦寺)との長年の対立が戦いに発展。京都の本寺はことごとく焼き討ちされ、堺の末寺に逃れることになった。
額に汗を浮かべながら、寺院が建ち並ぶ市街地の東側に向かう。暑さを紛らわせるように、ひとつひとつの宗派を確認し、法華寺院の多さを体感する。
京都から法華衆が逃れた堺では、10代を迎えた千宗易(のちの千利休)が茶を学び始めていた。宗易の生家は堺の納屋衆。当時、堺の商人たちの間で、中国や朝鮮などから輸入した古い茶碗や茶器を愛で、その由来を披露する豪勢な茶会が流行していた。
宗易の屋敷跡から法華衆の拠点である顕本寺までは歩いて行ける距離。当然、周囲には法華衆も多い。利休自身は、長く禅との繋がりばかりが注目されてきた。しかし、堺の街を歩けば、法華経もまた、侘茶の大成へと繋がる大河に流れ込んでいたような気がした。
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堺の自治の崩壊は、宗易の運命を変えた。
1569年以降、織田信長は莫大な財力を抱え鉄砲の生産地であった堺の直轄地化を進める。その途上、堺の豪商であり、茶人だった宗易ら3人を茶頭として召し抱え、自分の傘下に取り込むことで堺を支配下に置いた。
信長が没し、豊臣秀吉に仕えた年、宗易は還暦を迎えている。その3年後、宮中に参内するために、居士号「利休」を勅賜された。秀吉に重用され、権威と名声を手にした利休は、華々しさのなかにいて、由緒のある唐物名物ではなく、新しく焼かれた「今焼」と呼ばれる樂家初代・長次郎の黒樂茶碗を愛用している。
土の匂いを感じる黒樂茶碗は、法華経の薬草喩品(第五)の一節を思い起こさせた。
「同一の雲から放出された同一の味の雨水によって、それぞれの種類に応じて発芽し、生長し、大きくなる。それぞれに花と実を着け、それぞれに名前を得るのである」(植木雅俊『サンスクリット版縮訳 法華経 現代語訳』)
樂家は代々、法華経を信仰していた。
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堺の観光名所では、菜の花色の上着を着た観光ガイドの方々が、ボランティアで説明してくれる。その女性と話していて、かき氷をかけて食べる「氷くるみ餅」を振舞う店の話になった。その日は定休日。女性は自分ごとのように残念がって、わたしたちを見送ってくれた。
茶の湯が栄えた堺には、和菓子の老舗も多い。歌人・与謝野晶子が生まれた生家も、「駿河屋」という和菓子屋だった。2代目の父は、俳句や絵画に親しむ趣味人。晶子は女学校に通いながら帳場を手伝い、暇を見つけては文学に親しむようになる。そのなかに、『源氏物語』があった。
「紫式部は、私の十一二歳の時からの恩師である。私は二廿歳までの間に『源氏物語』を幾回通読したかしれぬ」(『定本 与謝野晶子全集』第19巻)
1939年、晶子は『源氏物語』の現代語訳を出版した。作中には、光源氏や藤壺、紫の上などが、8巻からなる『法華経』の講義を高僧から朝夕1巻ずつ4日間にわたって聞く法要「法華八講」を催す場面が登場する。平安時代、法華経は貴族たちの教養でもあった。
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晶子は21歳の時、与謝野寛(鉄幹)と出会い、互いに惹かれ合う。寛には妻子がいたが、翌年、晶子は堺の実家を捨て、寛を追って上京した。第1歌集『みだれ髪』を発表したのは1901年。慎ましやかに男性を支え、「家」を守る女性が求められるなか、寛へのあふれる愛を詠った歌集は、若い人々に熱狂的に受け入れられた一方、激しい誹謗中傷に晒された。
笛の音に法華経うつす手をとどめひそめし眉よまだうらわかき
『みだれ髪』を超訳した歌人の俵万智は、僧が登場する短歌に触れ、「現実の何かに取材したというよりは、許されない恋というストーリーを、晶子自身がヒロインとなって、甘い気分で演じている印象だ」(俵万智訳『みだれ髪』)と書いている。堺の街や源氏物語に息づく法華経は、晶子にとって教え諭す先生ではなく、艶やかな短歌に詠みあげるほど、身近な存在だったのだろうか。
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堺の地面を掘り下げると、幾層にも重なった真っ赤な焼土層が現れる。1615年の豊臣方の焼き討ちや1945年の堺空襲……。中世の堺は後世の大火災の跡に覆われ、その姿を残しながら、直に見ることはできない。
江戸時代、堺は幕府の直轄地となる。中世の発展に寄与した港も今はなく、堺旧港には江戸時代に築港・修理した港の面影がわずかに残るだけ。
夕日に照らされて、港内の水面が光り、思わず目を細める。今、ここに港としての機能はない。それでも海風はじっとりと湿った肌をなで、涼をもたらす。かつて人々に親しまれた法華経の残像は、陽炎のように掴めない。法華経の調べは時のなかでかたちを変え、どこに潜んでいるのだろう。
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〈次回は6月26日(月)公開予定〉
【参考文献】
神津朝夫『千利休の「わび」とはなにか』(角川学芸出版/2005年)
神津朝夫『茶の湯の歴史』(角川学芸出版/2009年)
植木雅俊『サンスクリット版縮訳 法華経 現代語訳』(角川ソフィア文庫/2018年)
与謝野晶子『定本 与謝野晶子全集』第19巻(講談社/1981年)
与謝野晶子『みだれ髪』(俵万智訳/河出書房新社/2018年)
宍戸清孝(ししど・きよたか)
1954年、宮城県仙台市生まれ。1980年に渡米、ドキュメンタリーフォトを学ぶ。1986年、宍戸清孝写真事務所を開設。1993年よりカンボジアや日系二世のドキュメンタリーを中心に写真展を開催。2004年、日系二世を取材した「21世紀への帰還IV」で伊奈信男賞受賞。2005年、宮城県芸術選奨受賞。2020年、宮城県教育文化功労賞受賞。著書に『Japと呼ばれて』(論創社)など。仙台市在住。
菅井理恵(すがい・りえ)
1979年、福島県喜多方市生まれ。筑波大学第二学群人間学類で心理学を専攻。2003年、日本放送協会に記者として入局し、帯広支局に赴任。2007年に退局し、写真家・宍戸清孝に師事する。2014年、菅井事務所を設立。宍戸とともに、国内外の戦跡や東日本大震災の被災地などを取材し、写真集・写真展の構成、原稿執筆などに関わる。情報誌や経済誌などで、主に人物ノンフィクション、エッセーなどを執筆。現在、仙台の情報誌『りらく』で、東北の戦争をテーマにした「蒼空の月」を連載中。
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