「彼女と交わす取引と、そして普通を望む化物の学校生活」第19話

 彼と出会ったのは医者になってしばらくたった時だった。
 飲み会に誘われて、好みの男性と出会い、ただ一夜を過ごした。それだけのはずだった。
 たとえ相手が屑男だったとしても、一夜の過ちと流すことはできる。
 私にとっての最悪は、その男が人間では無かった事だった。
 そして悪夢が始まった。
 血を吸われ、逃げられないように監禁され、死なないように食事を与えられる。
 彼は言っていた。
 自分は優しいのだと。
 殺しはしない、生かしておいてあげるのだと。
 簡単に吸い殺して正体がばれるような愚か者では無いのだと。
 毎夜毎夜、私の血を吸いながらそうほざいている何かと過ごした。
 怖かった。恐ろしかった。
 だから私は彼を理解しようとした。
 そうするといくつかの事が分かってきた。
 彼はたびたび私に血を吸う。それは異常性癖などでは無く、本当に吸血が目的のようだ。
 つまり相手は人間では無い。
 また腕力が人間離れしている。彼は私の目の前でナイフを指先で曲げてみた。
 やはり相手は人間では無い。
 怪我などはすぐに治る。一度力加減を間違えて瓶で怪我をしていたが、すぐに傷が消えた。
 だから相手は人間では無い。
 そしてならば、とある日私は床の転がっていた変形したナイフで相手の首を切り裂いた。
 パクパクと空気を求めてあえぐ口。傷口を抑えようと両腕で自身の首を抑える。
 私はその右腕の上腕にナイフをさらに突き立てる。
 血が噴き出すとともに、だらりと腕が垂れ下がった。
 今度は反対の腕も同じように処置をする。
 これで腕は使えない。首と両腕から血を噴き出しつつ、彼は私を驚愕の目で見つめてくる。
 その様子をみて、私は「あぁ、首のケガが治癒してしまうな」と喉仏めがけてナイフを突き入れる。これで気道と動脈の両方に傷がついたはずだった。
 空気の通り道が裂けた彼は口から血の泡を噴き出す。
 そこで私は、相手の体の構造は人間と同じだと理解した。
 ならばなんとかなる。
 私は念入りに確認をしていった。
 傷の治癒はどのくらいかかるのか。傷の程度や深さによる違い。
 途中から明確に治癒に時間がかかるようになった。原因は失血のようだ。
 その時から彼の抵抗も少なくなり、腕力もみるみる落ちていった。
 そんな相手の拘束を行うのは簡単な事だった。
 定期的に出血させ、念入りに縛り上げる。
 それだけで悪夢はただの弱々しい生き物になり果てた。
 そしてその頃、世間では私の事が結構な騒動になっていたようだった。
 女医の行方不明事件。私は奇跡の生還として迎えられた。
 そして私は日常に帰ってきた。一匹の成果物とともに。
 必要なのは理解だった。解析し解明し、知る事ができれば恐怖な無くなる。
 悪夢はただの現実になり果てる。
 知らないから怖いのだ。理解できないから恐ろしいのだ。
 ゆえに。
 私は恐怖を無くすためなら手段は選ばない。
 頭で理解できないというのから、この身で確かめるだけである。
「失礼ですが、貴方はどなたですか?」
 背後からの声に振り向く。
 考え事をしてぼんやりとしていた思考が現実を見定めた。私は今とある高校の敷地内にいる。
 校門を通り過ぎて、グラウンドを抜けて、どこか入れる場所は無いかと校舎の周辺を巡っていて。そしてどうなったのだったか。よく思い出せない。
 そんな私の視線の先には、日曜日だというのにしっかりとスーツを着込んだ険しい顔の女性が立っていた。
「服装からどこかの医師とお見受けしますが、学校に何か御用ですか?」
「……あぁ。実は千里瑞香さんを探していまして」
「……失礼ながら、場所をお間違えでは? この高校にそのような生徒はおりません」
 こいつは嘘をついていた。そんなわけがない。わざわざカルテを引っ張り出して確認したのだ。
 私は間違っていない。
「私、鈴谷蘭と申します。ここの健康診断を担当していますので、間違いは無いと思いますよ」
「……鈴谷医師?」
 目の前の女の表情が怪訝そうにゆがんだ。
「失礼ながら、本当に? 以前と比べて、その雰囲気が……?」
「嘘はついていませんよ。嘘をついているのは、そちらでしょう?」
 私はそのまま女に手を伸ばす。
 普段の数倍の速さで動いた体は、相手が反応する前に首を捉えていた。
「――がっ!?」
 目の前の女は状況が理解できずに四肢をばたつかせる。
「あら?」
 足が動いている事に疑問をもって足元に目を向ける。
 こちらが意識しないままに相手の体は宙に浮かび上がっていた。
「あぁ、ごめんなさい。まだ上手く力加減ができなくて」
 死なれてはまずい、と私は腕の力を抜いた。
「ゲホっ!! ゴホ、ゴホッ!!」
 相手はへたり込んであえぐようにせき込む。
 危ない危ない。死んでしまっては人殺しになってしまう。
 それは本意ではない。
「あ、貴方、何を――っ!?」
「だから、千里瑞香を探しているんですって」
 恐怖に引きつった顔に私はしゃがみこんで視線を合わせる。
 相手はそのまま後ろに下がろうとしたがもちろん逃げ切れるわけがない。
 私は今度は力加減を間違わないように、優しく優しく、相手の頬に手を伸ばす。
「殺す気はありません。ただ千里瑞香さんと話がしたいだけなのです。協力してくれますね?」

『こんにちは、千里さん』
「……はい?」
 瑞香はその電話を自室で受けた。
 その電話口から聞こえてきた声に彼女は顔をしかめる。
「あの、誰ですか?」
 彼女は日曜日の午前中に電話をかけてくる人間に心当たりがなかった。というよりこれが初めて瑞香にかかってきた電話である。
『鈴谷蘭です』
「……あぁ」
 瑞香は返答での名乗りでようやく相手が誰なのか理解した。
 昨日の今日で懲りないな、と彼女はけだるげに返答をしていく。
「それで、なんですか? 話は昨日で終わったと思うんだけど?」
『いいえ、改めてお話をさせて欲しいと思いましてね』
「話は終わった、と言ったはずよ?」
『えぇ、だから。話をしたくなるようにするだけです。私、今とある場所に居まして』
「……とある場所?」
 不可解な言葉で瑞香の顔色が変わった。一体場所が何だというのか、と眉根を寄せる。
 しかしその脳裏には昨日の鈴谷の目が浮かべられていた。暗く重く、狂気としか表現できない熱を帯びた瞳だった。
『そうですね。……ちょっと話してもらえますか? 何でもいいですよ?』
「一体何を?」
 電話口の鈴谷の言葉な瑞香に向けられたものでは無かった。
『……千里さん、ですか?』
 そして鈴谷の声でな無い言葉が瑞香の耳に入ってくる。
「……え?」
『いいですか? 貴方がここに来る必要はありません。すぐに警察に連絡し』
『あぁ、はいはい』
 しかしその声はすぐに鈴谷の柔らかい声に遮られた。
 電話口からの声を瑞香は誰か理解できなかった。ゆえに記憶を探り、そして鈴谷の行動から電話の先の情報を推測していく。
「……学校?」
『はい。貴方の高校です。相手は、えと誰ですか? 名乗ってもらえます』
『相手は鈴谷蘭という医師です。言う事を聞く必要はありません。だから』
『……面倒だなぁ』
 次の瞬間には電話口の先から鋭い音が聞こえた。瑞香の耳に僅かな悲鳴が入ってくる。
「お前!!」
『怖いですね。けど安心してください。殺しはしません。えと、スーツ姿の50代位の女性なのですが、心当たりは?』
 瑞香が思いついたのは学校の教頭だった。入学したばかりの頃、自分の事を気がけてくれていた事を思い出す。
「……分かった。今から行く」
『えぇ、お願いします。あぁ、それから』
 鈴谷は言葉を区切ってじらすように瑞香に告げた。
『私は貴方の血を注射しました。他の人間のように希釈したものではありません。昨日のように力づくとはいきませよ?』
「……っ!!」
 瑞香は小さく舌打ちを行う。彼女にいつもの余裕は無く、険しい顔で電話口を睨みつけている。
『では、高校で』
『瑞香さん!!』
 その時、大きな声が瑞香と鈴谷の間に割り込んできた。
『……はぁ、うるさいですね』
「先生!? そのまま待ってて!! すぐに」
『黙りなさい!!』
「行く、……え?」
『いいですか!! まず警察に連絡!! その後貴方はそのまま動かない!! 大人を頼りなさい!!』
『……へぇ』
「……先生?」
 叩きつけるような大声に鈴谷と瑞香の二人は言葉を続ける事ができなくなった。
『……今の状況、一応貴方は人質なのですが? つまり彼女が来なければ貴方は』
『それがどうかしましたか!? いいですか千里さん!! 今この場に貴方の責任は何一つありません!!』
「……それは」
 その言葉に瑞香は返答できなくなってしまう。
 責任がないなんて物ではない。自分こそが全ての原因なのだと、そう告げてしまおうかと口を開く。
 しかし彼女の下は麻痺してしまったかのように動かなかった。
『はぁ、貴方は何も知らないからそう言えるのですよ? 彼女の事を知れば貴方も』
『何度でも言います。彼女に責任なんてありません。今の状況は狂った貴方の犯行です』
『だから……』
『この状況で、生徒に、犯罪の責任があると言えと? 馬鹿を言いなさい!! これは貴方の罪で貴方の責任です!!』
『……ちっ』
「……先生、大丈夫だよ」
 その気迫のこもった声への反応は2者それぞれだった。
 方や苛立たし気に舌打ちを行い、方や穏やかに電話口へ話しかける。
『千里さん? 分かっていると思いますが警察に連絡しようものなら』
「……分かってる。私一人で行くよ」
『瑞香さん!?』
「大丈夫だよ、先生。安心して」
『えぇ、殺す気なんてありませんから。私は彼女の事を理解したいだけです』
 理解とは解剖や実験の事なのだろうな、と瑞香は理解する。
 だからこそ、こんな事に他の人間を巻き込むわけにはいかないと考える。
 教頭が何かまたいう前にスマホの通話を終了する。
「……ふぅ」
 数秒、瑞香は何かを思案するように考える。
「しょうがないよね」
 瑞香はそう呟き、制服に着替えて部屋を出た。


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