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コンセプトと意義の間

先日、私が所属する一般社団法人にて、来期行う事業支援先を選ぶミーティングが行われた。所属するのは社会課題を解決するための団体で、一般市民が社会課題解決のために時間とお金と持ちうる知見を社会投資してより良い社会を作ろうという趣旨の団体だ。

この団体に入ったのは大学四年の時なのだが、意外とこのような団体を見たことがないことに気がついた。あまりコミュニティを探すタイプではないので探せば他にあるのかもしれないが、何を提供するでもないし、提供先は一般企業というわけでもない、割と謎い団体である。

どうして謎い団体だと書いたのだろう。何も考えないで寄稿しているので「謎い」と書いてしまった。企業相手でもないしNPO相手でもない。特に仰々しく応募をかけるわけでもなく(一応たくさんの応募は募集している)つながりや噂から細々と応募がある。なんだかんだ今季で8期目となる。

応募してくる人は、個人も法人も幅が広い。事業化前のアイデアと行動を少し始めた人もいれば、がっつり法人で企業理念の段階から社会的な知見が欲しいという目的を持っての応募というケースもある。

規模こそ違えど、応募元の方々の取り組みには意義がある。

社会課題を解決したいという思いがあって、そのために行動することやお金を使うことや自身のリソースを使うことを厭わない人たちだ。そうした人たちに囲まれているとそれが普通のように感じてくるのだがそうではないことも知っている。そんな人たちの思いや行動には意義がある。

しかし逆にいうと、意義があるのだが事業化やお金や仕組みに変わっていない団体というのもたくさんある。その前のコンセプトを練るところに苦労するケースが多々ある。だから、私たちの提供するものはコンサルテーションとは呼べないまでもコンセプトを共に見つけていくことや、相手の頭の中にしかないコンセプトを言語化するような作業に落ち着くことが多い。私たちの提供するものとしてそうしたコンテンツを掲げているわけではなく、そうした分野が私たちメンバーの集団としての得意な部分なのだろう。

そんな中で最も課題化されるのは「コンセプトと意義の間」だと考える。

社会課題解決を支える大切な要素が「意義」だ。
「意義」があるからこそ取り組む行動が生まれ始めるし、モチベートされる。
特定分野に詳しい人や専門職の方たちが応募してくるケースも多々あるため、深い知見と新たな発見に出会うことは全く珍しくないし、それが提供元である私たちがリソースを提供する大きな動機となっている。

しかし、同時に「意義」を「コンセプト」「コンテンツ」の変換に苦しむことも多々ある。変換とも言えるし、昇華とも言えるかもしれない。考えていることや知っている知識を楽しませる形、学びになる形、価値になる形で世に送り出すことが簡単ではないことは応募してきた団体さんの課題を考えるとすぐにわかる。また、地域的、歴史的にも価値のある文化財や知財が日の目を見ずに世から消えていっているという構図は、全国的な現象だ。歴史や知識は、そのままの形ではコンセプト化されないしコンテンツ化もされないことを見てきた。

「意義」と「コンセプト」の間には何があるのか。何が端となりうるのかを考えたい。とりあえず困ったときの言葉の定義から入っていこう。

・意義
その言葉によって表される内容。
行為・表現・物事の、それが行われ、また、存在するに相応しい積極的な(優れた)価値。

・コンセプト
概念。企画・広告などで、全体を貫く基本的な観点・考え方。

ということである。
つまり考えてみるに、意義はコンセプトの中にあるということだ。
意義や知識が先にあって、人に伝えるにはそのレイヤーは伝わりやすいことが、改めて整理してわかってきた。

つまり、コンセプトを考えるということは、意義を考えるとか、価値を考えるという以上の概念にある。そのために考えることはなんだろう。

概念の枠組みや構成要素って何があるんだろう。
コンセプトはいつ生まれるのだろう。
コンセプトはどこで生まれるのだろう。

そんなことを考え出す。

では、概念とはなんだろうか。

・概念
同類のものに対して抱く意味内容。
同類のもののぞれぞれについての表象から共通部分を抜き出して得た表象。
対象を表す用語について、内容がはっきり決められ、適用範囲も明確な、意味。

ということだ。
「同類のものに対して抱く意味内容」ということは、「同類」の範疇が広ければ広いほど概念と概念を結びつけることが、つまりコンセプトとコンセプトを結びつけることができるということだ。

また、「同類のもののそれぞれについての表像から共通部分を抜き出して得た表象」ということは、それぞれの共通部分を見出すことができれば、コンセプト同士のつながりを作ることができると言える。

ここで考えるのは、前者の、「表象」の範疇を広げるパターンについて、つながりうる二つの概念を形成しておくことと、それが被ることが必要なので、ビジュアル的には、ベン図のように形成されるというパターンがあるということだ。

図1

しかし、このような範疇の設計は難易度が高いように思える。
特に、使用される表象の数が少ないほど(最小は二つだろう)この手法は効果が薄いように思える。なぜなら、重複する範疇の理解は、経験や知識の深さが求められ、簡単に範疇が被るほど大きな概念形成を必要とするので、リソースの効率性についてあまり良くないように思える。

というよりは、このトピックを考えだしたときにやるのは難易度が高そうだ。

そうすると後者の、「共通部分を見出してコンセプトを形成する」ことの方が簡単そうに思える。なぜなら、共通部分(内容)さえ見出せば、あとは型式に当てはめることで設を作ることができるからだ。ハムを入れてもメロンを入れても、お中元と書くか暑中見舞いと書くか、ふるさと納税と書くかの違いだからだ。設の形式に沿って内容が収まって意さえすれば、受けては解釈ができるという思考だ。

しかし、この二つの形式。考えてみると大きな差があるように思える。

前者は、頭の中の概念が勝手に形成され、アイデアのように降ってくるような思考だ。そうなると、基本的にはクリエイター的で、プロダクトアウト思考ということになる。

後者は、内容と設の整合性をとるので、内容が設の範疇かを機にするようになる。どちらかというとマーケットイン思考で、多少の制限がかかるはずだ。

プロダクトアウトとマーケットインでは、アプローチとしては、全く違うやり方のはずで、コンセプトを作る際にもその違いは肌感として如実に出るものと考える。そう考えたときに、「コンセプトを作ろう」としたとき、私などは「自由な発想で」なんて考えてしまいがちだが、どちらのアプローチの方が気分かということが大変重要になってくるし、プロダクトアウトとマーケットインの思考プロセスが使えるということになる。とてもありがたい。

と思ったが、私がやりたいのはコンセプトと意義の間を可視化することだったので、趣旨から外れることに気がついた。アホだった。

コンセプト=概念=企画・広告などで、全体を貫く基本的な観点・考え方

というところに立ちかえると、図1に少し工夫を加えることができそうだ。
例えば、下記のように接点を持たせてみることにする。

図2

ここから、先に軸を考えてみる方がやりやすいのではないかと思う。
例えば、縦軸と横軸にテーマを設定し、その中で考えられることを書き出してみる。内容は、システム1で表象されるような簡単な内容、浅い内容でもいいかもしれない。そこから内容を深めていき、システム2で表象されるような深い内容について考える。そうすると一本の軸が完成するのではないか。そこには、肉付けされたコンセプトがある。そのコンセプトを設計するのは、考えられる内容と結びつくあらゆるコンテキストなのではないだろうか。そのコンテキストの数こそ、共通部分を見出すことのできる可能性の大きさそのもの。そう考えられる。

例えば、二つの軸(トピック)をとって、ブレストベースで考えや印象を出し合う。ここでコンセプト①のベースを形成する。そのあと、色、形、質感(肌感)、経験、つながりなどあらゆる具体性を持った話を展開する。そうしてコンセプトを考えるとともに、脳内にあるつながりの可能性=コンテキストが繋がりやすい状態を形成する。そうして、常に星を見つけやすい状態を作る。

先日話していたのだが、星座は星の集まりだが、線がなければ星座には見えないだろうという話をしていた。その線の引き方は、描きたいことを先に考えて引くのか、星座がそれに見えたから線を引くのか、どちらかだろうという話。これはとてもイメージしやすい例だと考える。

そう考えると、一つ課題になるのは最終的にどのような形に仕上げるかということだ。星座の場合は、蠍や水瓶や天秤や小熊が成果物でありアウトプットであり再解釈されたコンセプトの表象ということになる。しかし、さまざまな場合が考えられる。例えば、事業計画やプレゼンの場合は、もっと複雑なアウトプットが求められる。そのとき、このコンセプト創出法はあまりに短絡的な気がする。

その場合、どのように図を編集していくの良いだろうか。
例えばシンプルに、

図3

というような感じで加えてみる。
どうだろう。
この場合、場所、期間、ターゲットなどさまざまに切り分けて考える必要がある。切り分けて考えるということは、その具体性を考慮できるということと、意識すること以外の文脈が浮かびにくいということだ。その部分を克服できた状態が、全体のプランを考えられるプランナーということになるのだろうが、このフォーマットを使うからには何らかの工夫を凝らして克服したい。

そう考えると、先にプロダクトアウト思考で全体の構想を描き、マーケットイン思考で各項目を考えることが有効かと考える。
図2で提示したことは、各項目の上位概念であり、「コンセプト段階」の話であるから斜めの串(文脈)を考える次元で活用するとやりやすい。
文脈の形成・構築のため、思考を巡らせることが必要だ。抽象的な概念と具体的な固有名詞を行き来する必要があり、その端となれば役割を果たしたと考えることができるので、具体的な構想については項目に沿ったテンプレートを別途作成することが適切かと考える。

あくまで、コンセプトの形成とその共通認識作り、そして身体性の確保・共有のための建設的な会話を促す方向性のためのフォーマットとなることを仮説として掲げる。

そうすると「コンセプト」と「意義」の間が見えてくる感じがする。

コンセプトと意義は、入れ子の関係であることがはっきりした。
コンセプトを考える時は、意義となるかどうか、その前段階にあるものを表層に上げることが必要になってくる。コンセプトを作るための知識や原子を用いて一枚のペーパーを作るような感覚だろうか。そうした基礎づくりを考え、その場に漂うコンテキストを集めて全体の共通認識、共通の経験と身体性を構築する作業、それは「場」の創造とも言われる要素があると考える。

だから、「コンセプトと意義の間」を考えた時、見えてきたものは、「コンセプトから得られる意義化する種と導くためのコンテキストと身体性の共有と建築」ということだ。この「場」を設計した時実際にどうなるかを次は試してみたい。

仮説はここまでだ。

追記11月23日

仮説だと思っていたことが追記することが増えた。

この記事を書いた次の日。
仕事を始める間に、一緒に仕事をしている人から
「落ち葉掃きをするぞ」
と言われ、落ち葉掃きを15分ほどすることに。

私は仙台市に住んでいるのだが、仙台は街並みに木々が溶け込んでいる。
というより、木々の中で生活をさせてもらっているようで、気の方がメインなのだ。それほど木があるから落ち葉も当然この季節。かなり落ちる。

落ち葉掃きなんて、小学校の掃除の時間以来だ。
地面に落ちている葉っぱというのはなかなか簡単には集まってくれない。
落ち葉を集めるのではなく、自分から掃きたいほうへ誘導しなければならない。

そうした時に、自分の立っている場所が変わると、落ち葉たちの形が変わるので掃き方が変わることに気がついた。

そうだ。

まるでコンセプトの見え方そっくりだった。
自分の立場を変えることで見えてくるものが違うことを上の視点から見ることができる。これを可能にするのがメタバースだ。

最近考えるのが、メタバースはコンセプトをそのままに創造しつつ、体験を通して身体性を得ることができること。これは考えたり付箋を使ったりするだけでは得られないものだ。コンセプトから落として身体性を作っていくには「体験」が必要だ。そのレベルで仮説化することができた。

これを記述したかったので追記。

以上。

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